2023年08月13日09時00分
本多清六記念館の入り口=埼玉県久喜市
来年登場する新1万円札の顔は渋沢栄一。「日本の資本主義の父」渋沢と並ぶ「マネーの賢人」が本多静六です。没後70年たち、若い人たちには「本多って誰?」かもしれません。「大河ドラマ」や「朝ドラ」で取り上げられてもおかしくない彼の人生に触れてみませんか。
◇「日本の公園の父」
本多静六は、江戸時代末期の1866(慶応2)年に現在の埼玉県久喜市菖蒲町に生まれました。少年時代に父親が亡くなり生活は厳しくなりましたが、苦学の末に東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業。ドイツ留学を経て、帰国後60歳まで母校東大の教授を務めました。日本初の西洋風公園である日比谷公園の建設や明治神宮の造営などを手掛け、「日本の公園の父」と言われています。
一方、渋沢は同県深谷市出身。後に本多が設立に尽力した埼玉の学生育英会の会頭に就任しました。当初渋沢は育英会の設立に慎重でしたが、まだ若かった本多が年収の3分の1を育英会のために差し出した誠意に打たれて支援を約束したというエピソードが残っています。
知の巨人とも言える本多は、巨万の富を築いた「蓄財の神様」でもありました。大学教授とはいえ一介のサラリーマン。その蓄財法のポイントは、現代にも通ずる三つのマネー・人生哲学にありました。
◇「四分の一天引き貯金法」
最初は「四分の一天引き貯金法」です。いたってシンプル。給料が出たら4分の1を貯金して残ったお金で生活すること。「お金のススメ第1回」で触れた、いわゆる「先取り貯蓄」です。
本多は大学で教え始めた20代の頃、既に結婚していました。妻やその親族らを含め家族9人の大所帯。この状態ではいつまでたっても貧乏から抜けられないと思った本多は、「貧乏に強いられてやむを得ず生活を切り詰めるのではなく、自発的、積極的に勤倹貯蓄をつとめ、貧乏を圧倒しなければならない」と決心したのです。
現代に例えると、月の手取りが20万円なら、5万円貯蓄して残った15万円でやりくりする必要があります。大変なことですが、15万円で生活する人がいないわけではありません。途中でやめてしまったらやり直すことは難しいもの。本多は「最初決めたことを続けるのが一番楽で、一番効果的」という言葉を残しています。
また「金というものは雪だるまのようなもの。初めはホンの小さな玉でも、その中心になる玉ができると、あとは面白いように大きくなってくる」とも。小さな雪玉を転がしていくと、だんだん大きくなっていきますね。「オマハの賢人」として知られる米著名投資家ウォーレン・バフェットの自伝「スノーボール」をほうふつさせます。中心になる玉を作る第一歩が、先取り貯蓄なのです。
◇勤倹貯蓄と「虚栄心は敵」
2番目は、「勤倹貯蓄」。当たり前ですが、お金をためるには、まじめに働いて「倹約」をしなければなりません。本多家の秘密は、妻銓(せん)子が細かくつけた家計簿にありました。蓄財が不正によるものではないかと疑った大学の同僚教授たちに本多が何冊もの家計簿を見せたところ、その教授たちは納得したばかりか、自分の妻を連れてきて倹約を勉強させてほしいと頼み込んだとも言われています。なお銓子自身幼い頃から秀才で知られ、英語は通訳ができる腕前。当時としては数少ない公認女医というスーパーウーマンでした。
本多は貯金がある程度の額に達したら、投資を勧めています。明治、大正、昭和を生きた本多は自分の専門分野である土地や山林といった不動産に加え、当時の成長産業の株式にコツコツと投資しました。リスクを抑えるために分散投資を行って、「時節を待つ」。焦らず、怠らず、時が来るのを待つことが肝要だと言っています。一獲千金を狙う「投機」ではなく、堅実な「投資」でなくてはなりません。本多は、長期・分散・積立という投資の王道を歩んでいたのです。
3番目は、虚栄心は敵だという信条です。本多は「自分の値打ちが銀もしくは銅でしかないのに、暮らしのほうは金にしたい。金メッキでもいいから金に見せかけたい。このような虚栄心から多くの人が節倹(費用を省いて質素に暮らすこと)できない。銀は銀、銅は銅なりに暮らせばよい」と考えていました。
現代では、順風満帆な人生を意味する「リア充」という言葉があります。しかしSNSでキラキラした「リア充」を装っているだけで、実際には自分を「金」に見せかけているだけというケースもあるでしょう。本多が生きた100年前と、人間の行動は変わっていないのです。虚栄心がある限り、蓄財の芯となる「玉」はいつまでたってもできません。
本多清六記念館内部=埼玉県久喜市
◇経済的自立で職業を道楽化
ここまでは、よくあるマネー論にすぎません。古今東西当たり前の蓄財法を実践しているだけです。本多が賢人と言われるゆえんは、富豪になってからの生き方にあります。
富豪となってからも本多は質素倹約を貫きました。本多は「二杯目の天丼はうまく食えぬ」という言葉を残しています。貧しかった当時の本多は一杯の天丼のうまさに感動したそうです。ところがその後「二杯目の天丼」を味わう機会に恵まれた本多は、おいしいと感じませんでした。「足るを知る」大切さを悟り、目の前にあるものに感謝することを忘れなかったのです。
本多は蓄財した富を何に使ったのでしょうか。それは自己投資。具体的には、生涯19回に及んだ学術研究視察のための海外渡航です。本多が生きた時代に海外に行くことは、今とは比べ物にならないくらいお金がかかりましたが、彼の向上心は無限でした。今風に言えば、蓄財を使って「リスキリング」をしていたのです。「経済的な自立が強固になるにつれて、勤務の方にもますます励みがつき、学問と教育の職業を道楽化して、いよいよ面白く、人一倍働いたものである」。生活のためではなく、楽しむために働く。経済的に自由であればこそ、このような心境に達することができたのでしょう。
その源流はドイツ留学にありました。当時の恩師は「学者であっても財産は必要。お金がなくては自由を制限され、心にもない服従を強いられる」と教えています。今もそうですが、蓄財に励むことに日本人はどうしても後ろめたさを感じます。「先生」と呼ばれる人は特にそうでしょう。蓄財は目的ではなく、手段だと見抜いていた本多は、堂々と生き方を貫くことができたのです。
本多は、倹約家でしたが、けちではありませんでした。その証拠が、社会貢献です。渋沢と共に設立した、上記の育英会は現在も存続しています。東大退官時は最小限の財産だけを残し、残りは学校、教育、公益の関係諸財団へ寄付しました。自ら立てた「人生計画総括表」では、66歳からを「奉仕期」とし、85歳で亡くなるまで講演生活を送るなど生涯現役を貫きました。
その生き方に何か感じたら、本多の自著「私の財産告白」(実業之日本社文庫)を手に取ってみてください。本多の生家があった場所に近い久喜市菖蒲総合支所には本多静六記念館(入場無料)があります。全国各地の名だたる公園が彼の手によるものだと知って驚嘆すると同時に、その生きざまに感動を覚えるでしょう。わざわざ遠くから訪れる人もいます。
「人生すなわち努力、努力すなわち幸福」というモットーを実践し、江戸末期から明治、大正、昭和という激動の時代を駆け抜けた本多清六。渋沢と並ぶ功績を残した本多の教えは、令和の時代にも生き続けています。(ファイナンシャルプランナー 樋口文子)
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