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家族が語る北杜夫さんの思い出

精神科医として

 11月3日公開の映画「ぼくのおじさん」(山下敦弘監督)は、変わり者だけど憎めない「おじさん」と、しっかり者のおいっ子という凸凹コンビの姿がコメディータッチで描かれる。この「おじさん」のモデルは、原作者の北杜夫さん(1927~2011年)だ。

 芥川賞作家で、精神科医だった北さん。双極性障害(躁鬱=そううつ=病)で、株取引に手を出して大損をしたとのエピソードも知られている。映画公開に当たり、北さんが暮らした東京都内の自宅に妻の斎藤喜美子さんと、一人娘でエッセイストの斎藤由香さんを訪ね、在りし日の北さんの思い出を語ってもらった。

    ※    ※    ※

―喜美子さんはドイツ在住中、北さんと知り合ったそうですね。

 喜美子さん 主人は水産庁の漁業調査船に船医として乗っておりまして、(当時、私が住んでいた)ハンブルクに参りました。

―北さんの著書「どくとるマンボウ航海記」(1960年)の基になった船旅ですね。

 喜美子さん 商社の仕事をしていた私の父は、皆さまのお世話をしまして、斎藤茂吉(北さんの父で歌人・精神科医)の歌に関心があったものですから、主人を自宅に招いたのですね。私は父のお客様だと思ってましたから、いつものようなおもてなしのつもりでいました。その後、私どもが日本に帰りましてから、お付き合いが始まりました。

―当時の北さんはどんな方でしたか?

 喜美子さん その頃はとても物静かでした。私は20代前半で、主人とは年が10歳離れていたものですから、どちらかというと「おじさま」みたいで、「頼りになるかな」「ちょっと面白そうだな」と思いました。その「面白そう」が後には大変なことになりましたから、私の直感はある程度、当たっていたのかもしれません(笑)。

 結婚前、主人は兄(精神科医でエッセイストの斎藤茂太氏)の家に居候をしておりました。甥(おい)たちに囲まれて、まさに「ぼくのおじさん」の世界でしてね。

 その頃は、慶応大病院の医局で無給助手が続いていました。

 なだいなださんは慶応の医局の後輩ですけれども、主人のことを「患者さんの中に入っていって、とてもいい医者だった」とおっしゃってくださいました。自分の実家が病院で、患者さんたちに慣れておりましたし、主人は心を病む方を大変大切に思っていました。

 由香さん 父が亡くなった後、なださんに父の思い出を伺いました。その際、「北さんは慶応の医局で一番汚い白衣を着ていた。一番だらしなくて、汚く見せていたけれど、北さんだけが『宗吉先生』と名前で呼ばれ、みんなに愛されていましたよ」と伺いました。

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