2011年3月11日の東日本大震災から1年。国内観測史上最大のマグニチュード(M)9.0を記録した巨大地震と、それに続く大津波で、東北の太平洋岸を中心に死者・行方不明者1万9000人以上という未曽有の被害をもたらした。
日本赤十字社は直後に災害救護活動を始動させ、これまでに6500人以上を派遣、8万7000人以上を診療した。初動で、日赤職員たちはどのように行動し、何を感じたのか。救護・医療活動を支えた人たちの動きを追った。(敬称略)
震度7、初動班出動
午後2時46分、東京都港区芝大門にある日赤本社ビルも強い揺れに見舞われた。室内を仕切るパーティションが激しい音を立てて倒れ、壁の一部にはひびが入った。
テレビの速報は宮城県北部で震度7を記録したことを伝えている。即座に、最も緊急性の高い「第3次救護態勢」が組まれ、本社から被災地への初動班派遣が発令された。
初動班は救護、ボランティア、広報の各担当2人の計6人で構成する、いわゆる先遣隊だ。企画広報室の杉山達哉(32)は、本来は4カ月に1度回ってくる「当番月」ではなかったが、同僚が海外出張中のため、要員の1人として加わることになった。
本社地下1階には、被災地へ送り込む職員らに携行させる装備品や資機材の倉庫がある。杉山たちは、スーツから救護服に着替えると、地下に駆け下り、車両への積み込みを急いだ。
装備品は、いつでも短時間で積載が済むよう、あらかじめ仕分けされている。個人単位で、ヘルメット、手袋、ハンマー、スイスアーミーナイフ、懐中電灯、非常食、寝袋、そして携帯トイレまで、いわゆる1セットになって準備されている。
積み込みを終え、警察から緊急車両の通行証の交付を受けて、赤十字のマークが入った2台のワンボックスカーが本社を出発したのは午後4時15分くらいだった。
芝公園から首都高に乗る。出発の際の指示はただ一つ、「北へ向かえ」。具体的な目的地は示されていなかった。仙台市の県合同庁舎内にある日赤宮城県支部とは連絡がつかず、無事なのかどうかも分からなかった。
杉山は初動で動くのは初めてだった。しかも、妻と連絡が取れず、出動を伝えることができなかった。「どこへ行くのか、いつまで行くのか…」。被災地へ早く行きたい気持ちと、早く妻に伝えたい気持ちが交錯した。
話題のニュース
会員限定