戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言

貧しさと時局

 ■肥後喜久恵(ひご・きくえ)さん

 私は1924(大正13)年、長野県の伊那谷の養蚕農家の次女として生まれました。31(昭和6)年9月18日、小学校1年の時に柳条湖事件、いわゆる満州事変が起き、37(昭和12)年7月7日には(日中戦争の引き金となる)盧溝橋事件、その翌年に国家総動員法が制定され、本当の戦争へと入っていきました。

 日赤の救護看護婦になったのは、貧しかったことと時局ですね。お金がなかったものですから、お嫁に行くときはたんすもいらないし、着物もいらないから、女学校に行きたいと父に条件を出し、聞き入れてもらいました。ところが、当時は英語は敵国語、外国の歴史はいらない、物理もいらない。女学校でやったことは植林や、食料増産のための大豆やばれいしょ作りでした。

 もう少し学びたいと思ったのですが、家にはもうお金がありません。それで、お金がかからず、やりたい勉強がもっとできる、語学もできる、お国のためにもなると考えれば、日赤しかないと。それで試験を受けたのです。

 小学校では、「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と教わりました。そういう時代に育ちました。軍国の乙女に育てられたんでしょうね。すべてを戦争にという時代でした。

 日赤は、寮がただ、お小遣い5円をいただきました。白衣も貸してくれます。食事もただです。教育費もいりません。3年間勉強すれば看護婦の資格が取れます。でも、ドイツ語の勉強は私が入った年からなくなってしまいました。代わりにしたのは担架教練でした。

 女学校を卒業して日赤長野の看護学校に入ったのは昭和16年、16歳のときです。通常は1クラス20人のところが倍の40人、石川県から委託を受けてさらに20人の総勢60人で勉強しました。その年の12月8日には、太平洋戦争が始まりました。

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