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日中国交正常化50年「始まっていたラリー」

2022年09月27日20時00分

(中)緊迫の名古屋で再び世界へ

◇中国が選んだ卓球

 周恩来首相の提案で1962年に日中交歓大会も始まり、日本選手団は中国で大歓迎される。後に国際卓球連盟(ITTF)会長となる荻村伊智朗は、周首相から卓球を重視する理由を聞いた。

 スポーツで特に女性の健康を改善し、人民の体格を良くしたい。欧米に対する劣等感をスポーツで拭いたい。卓球は老若男女が手軽にできる。

 国際社会へ出る手掛かりに、とも考えた。ITTFが国・地域でなく協会単位で構成され、既に中国が加盟していたことも好都合だった。

 だが、66年からの文化大革命で日中交歓大会は途絶え、中国は前年に5種目を制した世界選手権からも消えた。卓球人までが迫害され、容国団らの死が伝わると、松崎キミ代は「姉妹のように仲良くなった」女子選手たちの身を案じた。

◇粘り強く開けた扉

 その中国が71年名古屋大会で再登場する。荻村が独自ルートで周首相に働き掛けたのが端緒だが、交渉が表面化すると困難や反対論が浮上した。

 日本卓球協会会長・後藤鉀二(愛知工大学長)の側近として動き、後に同協会専務理事となる森武は生前「文部省に呼ばれ、卓球は勝手なことをするなと叱られた」と述懐した。だが最後は、台湾をめぐって双方が絞り出した譲歩と決断によって、合意に達する。

 中国の参加は注目を集め、入場券は売れたが、反発も大きかった。日本のエース小和田敏子(現姓竹内)は「発煙筒がたかれたり軍艦マーチが流れたり、街全体が異様な雰囲気だった」という。

 女子団体は決勝で中国と激突。小和田は1番のシングルスで快勝し、2―1で迎えた4番でもエース林慧卿を見事な戦術で破って優勝を決めた。

 前回69年大会世界チャンピオンで地元・中京大の教員だった小和田にとって、大変な重圧だった。開幕まで2カ月を切って中国の参加が決まり、少ない情報を基に積んだ特訓。いざ対戦すると、まだ日本になかった粒高ラバーに戸惑った。

 勝った瞬間、かつて松崎に学べと言われた中国選手が堂々としていたのに対し、つい相手との握手より先に日本ベンチへ走っていた。「頭が真っ白になって。気がついて、いかんと思いました」と、今も照れくさそうに語る。(敬称略、役職などは当時)

 ▽小和田 敏子 こわだ・としこ。現姓竹内。47年生まれ、山形県出身。中京大出。69年世界選手権女子シングルスで初出場優勝。71年女子団体優勝。全日本選手権優勝2回。右ペン・ドライブ主戦型。引退後は中京大教授などを務めた。

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