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箱根駅伝 「W」のアンカー 瀬古とつないだタスキ

「えんじにW」に憧れて

チームメートと記念撮影。左端が瀬古、右から2人目が筆者(本人提供)

 中学後半と高校を長距離ランナーとして過ごした。インターハイ、全国高校駅伝にも出場できた。中学2年から高校3年へと年月を重ねるごとに「箱根駅伝への憧れ」が高まった。全国の高校長距離走者のほとんどが憧れるのと同様に。

 当時は日本体育大学、東京農業大学、大東文化大学、順天堂大学が優勝を争っていた。だが強豪校ではなく、「えんじにW」のユニホームに憧れ、早稲田大学を目指すことに。その頃の早大は、予選会落ちは当たり前、箱根に出ても最下位という状況で、箱根駅伝の名門もすっかり地に落ちていた。名門復活が長らく叫ばれ、早大競走部は中村清氏を監督に迎え入れた。陸上界では知る人ぞ知る、強烈な個性を持つ存在だった。「中村清監督の下で箱根を走りたい」。その想いが早大進学を決意させた。
 だが、受験に失敗。そのころは現在のようなスポーツ推薦もなく、スポーツ科学部という学部もなかった。仮にあったとしても、スポーツ推薦で合格するような選手ではなかった。あの瀬古利彦ですら一浪を余儀なくされた。一浪後やむなく日本大学に入学したが、「中村清監督以外なら陸上はやらない」と、頑固な私はごく平凡な学生生活をおくることに。

|| 挫折とブランクが財産に

 アルバイトにサークル…。平凡な大学生活を過ごしていた。梅雨の季節だった。ふと思った。「お前にとって箱根駅伝は何なんだ。あれだけ憧れていたのに、このままでいいのか。一生箱根を走ることができないんだぞ」。そう自問自答し、再び早大を受験することを決意した。今振り返ると「よくあれだけ勉強したものだ」と思うくらい机に向かっていた。

 首尾よく早大に合格。インターハイ、全国高校駅伝経験者とはいえ、2年間のブランクがある。それでも中村清監督は競走部に迎え入れてくれた。中村監督の詳細は後に触れるが、このブランクが私を大きく成長させてくれたのだった。
 厳しい練習に耐えてこそ箱根の舞台に立てる。高校トップクラスの選手といえども、その厳しさに押しつぶされ、あるいは過度なトレーニングから取り返しのつかない故障に見舞われ、いつの間にか名前が消えていった選手が沢山いる。それが現実なのだ。しかし、ブランクのある私は、厳しい練習が苦痛ではなかった。当然、「苦しい」「つらい」「今ここで走るのを止めたい」と思ったことは何度もある。だが、苦痛ではなかった。箱根駅伝を目指している今の自分がうれしく、それが苦痛にまさっていた。ブランクというハンデが、私にとって大きな財産になっていたのだ。また、ブランクのおかげで、いわゆる「身体の使い減り」がなかったのも幸いした。

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