3年時、25年ぶりに3位。ゴール直前のカーブでガッツポーズ(本人提供)
また箱根駅伝(東京箱根間往復駅伝競走)の季節がやってきた。毎年1月2、3の両日、関東学連選抜を含む20チームの学生が箱根路をひた走る。母校のタスキをつなごうとする若者のひたむきな思いが、見る者の心も熱くしてくれる。
時事通信社の滝川哲也も、早稲田大学時代の1978年から箱根駅伝を経験した。4年ともにアンカー、最終10区を任された。歳は同じだが、1学年上に名選手・瀬古利彦がいた。瀬古が「花の2区」を走り、受け継がれたタスキを最後に滝川が引き受けた。中村清監督(故人)の厳しい指導のもと、1年時から総合6、4、3、5位。2年時は区間2位と結果も残した。
これから、滝川が往時を振り返りつつ箱根駅伝を語る。中村監督の厳しい指導、瀬古との交流、そして箱根への熱い思い…。古き良き時代の、早大競走部のエピソードをたっぷりお楽しみいただきたい。
|| 箱根駅伝への小さな第一歩
昭和56年1月3日。「都の西北、早稲田の杜に…」。左に日比谷公園、右手は帝国ホテルなどのビル群。自衛隊のジープ上から中村清監督が、最後の箱根駅伝を走る私のために校歌を歌う。そして「行けー!」と檄(げき)が飛ぶ。箱根路を走ることは、もうない。中学から憧(あこが)れ続けた箱根駅伝が終わろうとしている。自然と涙があふれてきた。
陸上と出合ったのは中学2年。体育の授業で2千メートル走があり、回を重ねるごとに記録が伸びた。野球部に在籍していたが、体育の先生が陸上部の顧問だったこともあり、駅伝に借り出された。地区大会ではあったが、いきなり区間賞を獲得、全校集会の際に表彰され、「野球部ではこんなに注目されたことない。野球はやめて本格的に長距離をやってみよう」。両親に何も言わずに野球部から陸上部に移籍してしまった。
人生、何がきっかけで変わるか分からない。2千メートル走の初回は、いい加減に走りクラスで下の方だった。2回目だった。なぜか真剣に走ってみようと思い、クラスでトップに。その後は走るたびに記録が向上した。2回目のとき、何が理由で真剣に走ろうと思ったかは覚えていない。もし、真剣に走らなかったら箱根駅伝とは無縁の人生だったに違いない。
いずれにしても、体育での2千メートル走が「憧れの駅伝」への第一歩となった。
新着
会員限定