筆者は高校生のころまで、決してドイツが嫌いではなかった。76年欧州選手権決勝で伏兵のチェコスロバキアにPK戦で屈して連覇を逃した際も、悔しい思いが先にきた。憧れの選手の一人だったフランツ・ベッケンバウアーはこれが西ドイツ代表での最後の主要大会出場となり、78年W杯には参加しなかった。その78年W杯2次リーグで西ドイツがイタリア、オランダと引き分け、オーストリアに負けて敗退が決まった際、残念な思いを抱いた記憶がある。ドイツの一つの時代の終わりを実感し、寂しい感情を抱いたものだ。
英国サッカーの熱狂的なファンだったにもかかわらず、高校時代に通信添削で使用したペンネームは、西ドイツ代表のある中堅選手の名前だった。ドイツは結構好きなチームだったのだ。
これには、多分に日本という環境が影響していたと考えられる。日本のサッカーは60年代にドイツ人のデットマール・クラマー氏の指導を受けて大きな飛躍を遂げ、68年メキシコ五輪の銅メダルという大きな果実を手に入れた。「日本サッカーの父」クラマー氏の薫陶を受けた指導者や選手が、その教えを自らのチームに持ち帰って伝播する。メキシコ五輪の銅メダルメンバーをはじめ、日本サッカー界にはドイツ・サッカーの信者が大きく広がった。
このころから世界サッカー界の動きを日本に伝え続けた貴重な番組が、テレビ東京(古くは東京12チャンネル)の「三菱ダイヤモンドサッカー」である。1回の放送で流れるのは、1試合の前半か後半のみ。つまり1試合を見るのに2週間かかる放送形式だった。注目の試合の多くを生中継で視聴できる現在の状況からは考えられないが、当時のサッカーファンにとっては実に貴重な40分であり、結果が分かっていても目を皿のようにして画面を凝視した。70年代までほとんどの家庭には録画機などなく、放送を見逃せばもう見るチャンスはない。そんな状況下で実にありがたい映像がファンに提供された。
この番組のスポンサーは言わずと知れた三菱グループである。そして三菱のサッカー関係者はドイツとのつながりが特に深かった。伝説的な解説を繰り広げた岡野俊一郎さんは特にドイツびいきという感じではなかったが、三菱サッカー部の関係者が解説を務めると、明らかにドイツが好きな人が多かった。
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