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「特攻拒否」貫いた芙蓉部隊(下)

特攻や戦争、自問し続けた元少佐

 《芙蓉部隊を指揮した美濃部少佐のその後についても、最後に触れておきたい。》

 美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員した。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加。要職を歴任し、70(昭和45)年7月に最高位の空将で退官した。

 「政治家、役人、ジャーナリスト、国民世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった」という自衛隊勤務。ただ一つの誇りは、「二度と侵略戦争をしない」ため、祖国自衛のみに限定する兵器体系と装備を厳守したことだという。

 晩年はがんと闘いながら、97(平成9)年6月に81歳で亡くなるまで、特攻や戦争の意味を自問し続けた。遺稿となった手記「大正っ子の太平洋戦記」では、愚劣な作戦に執着し、特攻命令という「統率の外道」を乱発した軍上層部を痛烈に批判。「これだけ負け続け、本土決戦とは何事か。皇軍統帥部高官たちは天皇に上奏、これ以上戦うも勝算ありませんと切腹しておわびすべき時期である」とまで記している。

 だが、その美濃部氏も戦争の最末期、米軍の南部九州進攻時の作戦計画を作成するよう命じられ、ひそかに芙蓉部隊の玉砕計画を立てていた。海軍兵学校出身のパイロットを中心に編成した特攻部隊を自ら率い、米軍に体当たり攻撃を仕掛けるというものだった。

 89(平成1)年8月に記した別の手記「特攻の嵐の中で揺らいだ指揮官としての私」では、その計画を「私の限界であった」と告白。「平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い」と指摘した上で、「特攻の是非は単純には決し難い」とも述べている。

 「私には特攻攻撃を指揮する自信がなかった」―。美濃部氏が確信していたのは、「人間がその生命を絶つのは、罪人以外は自らの意思、本人の納得のもとに行われるべきである」ということだけだった。

 遺稿の最終章は、戦後の日本人に対する苦言が続く。「平和、非戦を叫ぶのみで、飽くなき経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策不十分」。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という戦時中の軍部の命令と同じだと言い切っている。

 アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争の敗北を「日本人の独善性の過ち」と捉えた遺稿は、こう結ばれている。「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい」

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