敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉(ふよう)部隊」だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。(2015年8月26日掲載)
死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕」「1億総特攻」といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。
芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで名付けられた。
美濃部元少佐の手記や元隊員らが編んだ部隊史によると、発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星(すいせい)」60機、1人乗りの戦闘機「零戦(ゼロ戦)」25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋基地、さらには岩川(いわがわ)基地に移動し、終戦までに出撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上った。
この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼く)、空母群発見6回、撃墜2機など、特攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達した。
福岡県小郡市に住む坪井晴隆さん(89)は、芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した。階級は下士官の一つ手前の飛行兵長(飛長)。美濃部少佐の指揮下に入る前には、特攻志願の願書を提出した経験を持つ。記者の問い掛けに時折懐かしげな表情を浮かべながら、坪井さんはゆっくりと70年前の記憶の糸を手繰り寄せていった。
聞き手:福岡支社 境 克彦
編集:時事ドットコム編集部
(2015年8月26日)
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