米本土が襲われるという真珠湾以来の衝撃が、アメリカの国家安全保障観を根底から揺さぶった。湾岸戦争で「too little, too late」と評された日本に、同盟国としての主体性が待ったなしで問われていた。2001年の「テロ対策特別措置法」から始まった法的整備は、安全保障の現場のどのような任務遂行から積み上げられて行ったのか。事件当時ワシントンに駐在していた元自衛隊幹部が「9・11」の意味を問い直す。
「軍縮」を志向していたアメリカ
筆者は1999年7月から2002年7月まで、在ワシントン日本大使館において防衛駐在官として勤務し、特に最後の一年間は防衛班長を務めた。赴任当時のアメリカは、「経済一色」だったといっても過言ではないだろう。東西冷戦が終わり、湾岸戦争によりイラクからクウェートを解放し、ユーゴスラビアの民族紛争もコソボ空爆による人道的介入で解決したとして、国家対国家の大規模戦争の可能性はほぼ考えられず、一般のアメリカ人はひたすら「平和の配当」を求めていた。クリントン―ゴア政権のEコマースへの投資による、いわゆるインターネットバブルともいわれる時期にワシントンに着任した筆者は、「コンピュータ2000年問題」への対応のために徹夜で働いたことを思い出す。
一方日本では、98年8月に北朝鮮のテポドンミサイルが日本上空を飛行。99年3月には能登半島沖不審船事件が起き、同年5月28日には「周辺事態法」が公布されていた。つまり日本人が戦後初めて直接的な脅威を認識し、自衛官にとっては、訓練ではなく、実任務として対処すべき脅威が顕在化したころだった。
したがって、日米の安全保障関係者の間では、民族紛争やテロ、大量破壊兵器の拡散が叫ばれており、核抑止がきかないイスラム原理主義組織などが「核とミサイルを獲得できる」可能性を念頭に、「迎撃して排除するしかない」という発想が現実化しつつあった。いわばミサイル防衛の萌芽の時代である。このように、新たな脅威に着目した議論や研究が盛んになっていたものの、まだまだ一般国民にとっては他人ごとのように思われていた。
実際、2001年1月に就任したジョージ・W・ブッシュ大統領が当初掲げたのは、減税政策だった。民主党から政権を奪取し、小さな政府を標榜する共和党政権としては当然の方向性だ。国家予算の削減は、国防総省(ペンタゴン)についても例外とされず、ドナルド・ラムズフェルド国防長官(以下、肩書は当時)は大統領から軍縮を命ぜられた。
軍縮計画は、普段はアンドリュー・マーシャル氏一人しかいないネットアセスメントというペンタゴン内の組織で、秘密裏に立案がすすめられた。そこには、現役軍人は一人も参加させてもらえなかった。特に米陸軍に関しては、本格的な野戦にもちいる重厚長大な自走榴弾砲がやり玉に挙げられた。その結果、日系人初の米陸軍トップになったエリック・シンセキ大将は、地域紛争や対テロ作戦を見据えた軽装甲車中心の「ストライカー旅団」を立ち上げることになった。
8月には新聞の一面で、「国防長官と米軍制服組との確執が頂点に達している」とすっぱ抜かれた。ラムズフェルド国防長官は、リチャード・マイヤーズ統合参謀本部議長とともに記者会見を行ってこれを否定するなど、火消しに躍起になっていた。そんな中で起きたのが「9・11」テロだった。テロ後、それまでの国防予算に1000憶ドル以上が上乗せされることになり、軍縮問題は消滅した。
ワシントンで経験した「9・11」
あの日、1等海佐として日本大使館で防衛班長の任にあった筆者は、朝9時頃に出勤し、大部屋で執務する陸海空の2佐たちがテレビを見ながら騒いでいるのに気付いた。何が起きているのかと一緒に画面を見始めると、ちょうど2機目がタワーに突っ込むシーンを目の当たりにした。即座に「テロ攻撃だ」と判断してペンタゴンに所在するアメリカ国防情報局(DIA)分室のカウンターパートに電話を入れ、「10時にそちらに行く」とアポイントを取ったものの、その30分後にテレビで「ペンタゴンが爆発」とのテロップが流れた。直ちにペンタゴンに電話をするも、今度は呼出音すらしなかった。
急いで2等陸佐をペンタゴンに向かわせたが、携帯電話も繋がらない。しかし彼は、偶然にもDIA分室のカウンターパートと出会うことができ、航空機衝突直後のペンタゴンの様子について話を聞いて戻ってきた。筆者も、日が暮れてから自らペンタゴンの様子を確認に行った。途中のワシントンDCは戒厳令下のように非常線が張られていたが、制服を着ていた我々が警察官に目的を告げると、「ペンタゴン近くのハイウェイまでなら近づける」と教えてもらい、現場に向かった。途中で車を止め、炎が上がるペンタゴンを観察しながら感じたその熱気を、今も覚えている。
大使館に戻ると、米海軍のカウンターパートだった某大佐から電話があり、「オペレーションルームにいた仲間が死んだ」と告げられた。彼は、ハイジャック機が衝突して125名が亡くなった区画の一つで勤務していたのだ。いつも明るい彼の苦痛に満ちた声を聞き、「私も一緒にこのテロと戦う」と思わず筆者は返した。
その後、統合参謀本部のアジア担当副局長だったケビン・チルトン空軍准将(後に大将、戦略軍司令官)からも電話があり、「今回の攻撃で日本人にも24名の尊い犠牲者が出た。日本はこのテロに対して、主体的にどう対応されるのか教えていただきたい」と伝えてきた。
テロの当日から、日本大使館では一日二回のシニアスタッフミーティングが開かれることになった。場所は柳井俊二大使の執務室だった。この会議で、筆者がチルトン准将からのメッセージを伝えると、小松一郎政務班長が、「国務省からも同じことを言われている」と報告した。さらに柳井大使もホワイトハウスから同じことを伝えられており、米国は、大統領府、外交と防衛の全てのルートから同じメッセージを同盟国に送っていたのだ。
当時の大使館の幹部は、湾岸戦争(1991年)での悔しい思いを共有していたメンバーだった。あの戦争で日本は130憶ドル超もの戦費を支払いながら、戦後にクウェートが米国の新聞に載せた感謝広告に日本の名前だけがなかったのだ。「9・11」当時、日本にはまだ国家安全保障局(NSS)は存在しなかったが、在米大使館には、世界各国に置かれた日本大使館で唯一、日本のすべての官庁から100人を超えるスタッフが出向している。そのため、ワシントンの大使館が事実上の「ミニNSS」のような形で機能し、日々混乱するアメリカ側の情報を収集・分析して、外務本省を通じて首相官邸に伝えていた。
一週間後の9月19日、小泉純一郎首相は、3項目の「基本方針」と7項目の「当面の措置」を記者会見で発表した。「基本方針」の第一は「テロリズムとの戦いを日本自らの安全確保の問題と認識して主体的に取り組む」とされ、7項目の「当面の措置」のうち3項目が自衛隊の派遣に関することだった。「この7項目の発表は、日本の防衛政策が本質的に変わった瞬間だ」と米国国家安全保障局(NSA)のマイケル・グリーン氏は筆者に語った。
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