「日韓に橋をかけた」偉業 ロッテ「重光武雄」を悼む
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大西 康之

 日韓「ロッテグループ」の創業者、重光武雄名誉会長(韓国名:辛格浩=シン・ギョクホ)が19日、ソウル市内の病院で死去した。98歳だった。

 日本統治時代の朝鮮半島慶尚南道で生まれ、戦時中の1942年に渡日した重光氏は、戦後、チューインガムで大成功。その富を母国に投資し、日韓を股にかける巨大財閥を作った。成功の背景には、日韓の大物政治家との密接な関係があった。

「ロッテ・オリオンズ」誕生秘話
 1988年9月、プロ野球に衝撃が走った。

 「南海ホークス、ダイエーに身売り」

 南海電鉄が経営不振のホークスを持て余し、流通革命で日の出の勢いだった中内功氏率いるスーパーの「ダイエー」に球団を売却したのだ。当時、テレビ中継がほとんどないパ・リーグは、どの試合も閑古鳥が鳴く有様で、各球団とも年間40億円近くの赤字を垂れ流していた。母体の経営力からの推測で「南海の次」と言われていたのが、ロッテである。

 西武ライオンズの日本一でシーズンが幕を閉じた直後、『東京スポーツ』が1面トップですっ飛ばした。

 「ロッテ、サッポロビールに身売り。札幌にドーム球場。監督には北海道出身の若松勉」

 この年の春、『日本経済新聞』に入社した私は、産業部(現企業報道部)で菓子業界の担当をしていた。

 「抜かれてるぞ!」

 キャップにどやされ、おっとり刀で東京・西新宿にあるロッテの本社に駆け込んだ。

 「オリオンズを売却するって本当ですか」

 涙目の新人記者を哀れと思ったのか、広報室長が重光社長(当時)に会わせてくれた。切羽詰まった私の顔を見て、重光氏はクスリと笑った。

 「大丈夫、私の目の黒い内は、オリオンズは売らないよ」

 「本当ですか」

 「疑ってるのか。オリオンズは岸さんに頼まれて引き受けたんだ。売っちまったら、あの世で私が岸さんに怒られる」

 重光氏が言う「岸さん」とは、元首相の岸信介のことである。重光氏は「ロッテ・オリオンズ」誕生の秘話を語り始めた。

 1957年、「毎日オリオンズ」と「大映ユニオンズ」の合併で誕生した「大毎オリオンズ」は、映画会社の「大映」が実質的な経営権を握り、大映の永田雅一社長がオーナーを務めていた。1960年に『毎日新聞』が経営から手を引き、1962年には永田氏が私財を投じて建設した東京スタジアム(荒川区)に本拠を移転。1964年には、「東京オリオンズ」と名前を変えた。

 しかしテレビの普及とともに映画産業は斜陽となり、大映はオリオンズを持て余す。1969年1月、重光氏は都内の料亭に呼ばれた。呼んだのは岸氏である。

 部屋に入ると、岸氏の隣に永田氏が座っていた。永田氏は座布団を外し、畳に額を擦り付けて懇願した。

 「重光さん、あんたしかいない。オリオンズをよろしく頼みます」

 「え?」

 寝耳に水の話に重光氏は当惑した。

 「いや、野球のことはよく知らないから……」

 そう言って渋る重光氏に永田氏は懇願を続ける。

 「頼む、重光さん。本当にあんたしかいないんだよ。あんたのライバルの『リグレー』(米国のチューインガム・メーカー)だって、野球に広告を出して大きくなったんだ。向こうの野球選手は試合中にクチャクチャやってるだろ。あれだよ、あれ」

 永田氏は重光氏の腕を掴んで離さない。

 チューインガムから始まり、「ガーナ・チョコレート」でもヒットを飛ばしたロッテは、「明治製菓」、「森永製菓」と並ぶ菓子大手に成長していた。

 岸氏が助け舟を出した。

 「重光さん、永田さんがここまで言ってるんだ。ここはひとつ、私からもお願いする。オリオンズをよろしく頼む」

 元首相で、のちに「昭和の妖怪」と言われる政界の大物に頭を下げられたのでは、重光氏も嫌とは言えない。その場は資金ショートを防ぐための出資を約束して逃れたが、結局、球団経営を任されることになる。こうして1969年に業務提携を行なって、「ロッテ・オリオンズ」に改名、1971年にロッテが球団を買い取った。

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