名もなき島民が語る「日本」の記憶
北海道の沖合16キロ。晴れた日には根室や知床の海岸が見える距離に浮かぶ国後島。終戦時に旧ソ連が占領し、今もロシアが実効支配する島の姿を、旧ソ連ベラルーシ出身で、フランスを拠点に活動するウラジーミル・コズロフ監督がカメラに収めた。日ロ間に横たわるセンシティブな外交問題を扱った作品だが、緊迫した交渉の舞台裏も、声高に演説する政治家も出てこない。約70分の全編を通して語られるのは名もない住民たちの「日本」の記憶と、生まれ育った島への思いだけだ。(時事ドットコム編集部 小松晋)
「国後島は1945年にソビエト連邦に併合され、翌年1万7千人の日本居住者は強制退去させられた。両国における平和条約は、締結に至っていない」
映画はこんな字幕で始まり、島で暮らすロシア人の日常を描写していく。黙々と畑を耕す初老の女性、学校に通う子供たち、水産加工場の労働者。一見してロシア本土の片田舎と区別の付かない光景だが、そこは日本政府が「わが国固有の領土」と呼び、法令上は紛れもなく「日本領」とされている土地なのだ。
島の面積は1489平方キロメートル。北方四島の中では択捉島に次ぐ大きさで、沖縄本島よりも広い。ソ連崩壊後、1990年代に人口が激減したが、プーチン政権による大規模インフラ整備事業などで徐々に持ち直し、最近は1万人を超えているともいわれる。
1956年の日ソ共同宣言では、北方四島のうち歯舞群島と色丹島を「平和条約締結後に日本に引き渡す」と当時のソビエト政府が約束した。だが、日本国内には国後、択捉を含む「4島返還論」が根強く、冷戦下の国際情勢も絡んで交渉は一進一退を繰り返した。
2018年には、ロシアとの経済協力に前向きだった当時の安倍晋三首相が、日ソ共同宣言を基礎に平和条約締結交渉を加速させることをプーチン大統領と確認したが、ロシア国内のナショナリズムの高まりでプーチン氏が慎重姿勢に後退。その後に改正されたロシア憲法には「領土割譲」を禁じる条項が盛り込まれ、交渉は振り出しに戻ってしまった。
北方四島に暮らすロシア人との相互理解を促進するため、1992年から始まった日本人元島民らのビザ(査証)なし渡航などの交流事業も、新型コロナウイルス感染拡大以降は滞っている。
映画では、そうした日ロ間の駆け引きに翻弄(ほんろう)されてきたロシア人島民の、いら立ちとも諦めとも付かない「本音」が引き出される。ある男性はプーチン政権が進めたインフラ整備事業について「新しい家は断熱材もなく貧相で雨漏りする。ひどいありさまさ」と不満を漏らし、「一般庶民は日本との条約締結を望んでる。そうして雇用を生まなければ、住民は酒に溺れて死ぬか(島を)去っていくだろう」と吐き捨てる。
農園を耕す女性は「日本人は島を返還しろと言うけど、ここに移り住むつもりはない。漁業をするために海域が欲しいだけなのよ」と話し、別の老人もまき割りの手を休めて言う。「共存すればいいんだ。日本人がここへ来れば雇用が生まれるだろう?」
一方、保守的な思想の持ち主と思しき別の男性は、ロシア国旗が飾られた部屋でそうした島民の意見にため息をつく。「われわれロシア連邦が第2次世界大戦を再検討しないことは、既に明言されている通り。議論の余地はない。島を返還する理由などどこにもないし、平和条約も必要ない」のだと。
国後島には今も至るところに日本の痕跡が刻まれている。地中から掘り出されたしょうゆ瓶、かつて寺院が建っていた礎石、草むらに横たわった墓石。そんな記憶の断片が映画の随所にちりばめられ、島民の現在と交錯する。占領中に出会った日本人の暮らしぶりを、ノスタルジーに浸りながら語る老人も出てくる。
ともすればプロパガンダに陥りがちな「領土」問題が題材だけに、登場人物の誰の主張に肩入れするでもない抑制的な演出には好感が持てる。ナレーションも、音楽もない。代わりに鳥のさえずりや犬のほえる声、風、波といった自然の音が、全編を通して島の風景を彩る。本当の語り手はただ一人、ロシア語でクナシル(Кунашир)と呼ばれる、その島なのだ。
映画「クナシリ」は12月4日より全国で順次公開。
(2021年11月22日掲載)
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