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【今月の映画】

米ドキュメンタリー映画「ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇」

日本人が向き合うべき現代の「幽霊船」

 映画『ゴースト・フリート』は現代の「幽霊船」を描いた問題作――。なぜ現代の、と評するのか。それは本作が、まるで1929年にタイムスリップしたような錯覚に陥るドキュメンタリー映画だからだ。1929年は、プロレタリア文学の傑作とされる『蟹工船』を小林多喜二が発表した年。『蟹工船』は誰もが思い付くこの映画の先祖とでも言えようか。

 しかし映画は、紛れもなく現代社会の一部を切り抜いたものである。(北海道大学准教授・佐々木貴文)

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 かつて私は、もう一つの『蟹工船』を追っていた。悲惨さの裏側にある、人々をそこにいざなった産業としての「魅力」に近づきたかったからだ。実際、立身出世の場に選び、赴いた者も一人や二人ではなかった。

 結果、優秀な多くの若者が流れ込んだ北の海での漁業は外貨獲得産業として花開き、工船蟹漁業で生み出されたカニ缶詰は欧米に大量に輸出される。昭和初期には、日本の全輸出総額に占める缶詰といった水産物の割合は約5%にもなっていたとされる。水産業が日本経済の一端を支えていたのだ。

 だがやはり、深く、濃い影からは逃れられなかった。当時の新聞記事の見出しには「醤油を忘れて酒を積んだ船長 毎日酔ッ払つて怒号」(1930年9月10日付『読売新聞』)とあり、また内務省の資料には「労働者ニ対スル処遇苛酷ニ過ギ往々ニシテ暴行、傷害、不当逮捕監禁等ノ犯罪事実ヲ発生スルコトアリ」(『本邦ニ於ケル蟹工船漁業ノ労働事情(昭和六年二月)』)と内幕が記されたものまであった。

 映画は、これらの悲劇から一世紀近くも経た現代のタイ・インドネシアを舞台としている。出演者は、2017年にノーベル平和賞にノミネートされた労働権利推進ネットワーク(LPN)の共同創設者パティマ・タンプチャヤクルや、かつて強制労働に従事し体と心に深い傷を負った海の奴隷撲滅運動家のトゥン・リンら。

 大筋は、タイから遠く離れた、まったく聞いたこともないインドネシアの離島に船を出し、脅迫などの困難を乗り越え、タイの漁業会社の漁船から辛くも逃れることができた「元奴隷」たちを救出する緊迫の物語である。

 今でこそ、強制労働ならびに人身売買を取り上げたショッキングなドキュメンタリー映画は少なくない。しかしこの映画は、「IUU漁業」というもう一つの軸を盛り込み、それらを混乱させず、しっかりと各々の歯ごたえを残したままミックスさせることに成功した作品となっている。

 IUU漁業とは、違法の「Illegal」、無報告の「Unreported」、無規制の「Unregulated」の頭文字をとった漁業のことであり、誰もがSDGs(持続可能な開発目標)を口にする時代にあって問題視されている。

 水産資源に負荷をかけるからだけでなく、そうした無秩序な生産活動を行う船が強制労働の温床となりやすいからだ。

 そもそも、漁業やシーフード産業を扱った映画は日本との結節点を持ちやすい。日本の漁船団それ自体は勢力の凋衰(ちょうすい)が続き、生産量を大きく減らしている。東シナ海や北部太平洋など、多くの海で中国勢や台湾勢の後塵(こうじん)を拝す。

 それでも消費地としての存在感は維持している。輸入水産物は、コロナ禍の2021年にあっても1兆6042億円に達した。映画の舞台となったタイからも、マグロやカツオの缶詰、エビやイカ、さらには魚油(養殖魚のエサなどになる)までも購入している。その額はおよそ1000億円。

 この点で、映画『ゴースト・フリート』は私たちが無関心ではいられない現実を突き付けてくるのだ。

 映画はいくつもの問題を私たちに問い、核心に向き合うことを求めてくる。

私たちも生きるために食べている。だからといって強制労働を見て見ぬふりはできない。消費者としての責任をどう果たすのか――。

 この映画は、古くて新しい問題に向き合い、考える機会を提供してくれている。そう理解することができるのだ。

 ただし、答えが薄明りに照らされていても、そこにたどり着くことが難しい問題があることも教えてくれている。

 例えば、映画のタイトルからも感じられるように、漁船の存在を認識し、その中をのぞき見ることの難しさだ。漁業は海上産業である。どこで何を獲っているのかを正確に把握することが困難な世界なのだ。だから本作品では、多くの時間を割いて「地獄」と化していると思われる漁船を捜索・追跡し、その実態に迫ろうとした。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」。映画『ゴースト・フリート』は現代の「幽霊船」を描いた問題作であったが、示されているのは真実に接近したいと考えることの大切さではなかっただろうか。真実から目をそらさないことが、恐ろしい現実と対峙(たいじ)する方法なのだと。

 そして同時に、映画が正規の漁業生産でも命を失う漁師がいる現実に向き合う機会となってくれることを願わずにはいられない。

 絶対の安全はない海の上で、私たちの命を支えるために働く漁師に思いを寄せ、彼らの安全をいかに確保するのかを考えることが、いずれ「幽霊船」を葬るための一つの道程となるからだ。

 5月28日から全国で順次公開。

(2022年5月24日掲載)

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