慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国(現在の岐阜県)の関ケ原で、徳川家康を大将とする東軍と石田三成を中心とする反徳川勢力の西軍が激突した「関ケ原の戦い」は、およそ6時間で決着、東軍の勝利に終わった。この戦いによって徳川家康は天下の覇権を手にし、やがて江戸幕府を開いて徳川政権の基盤を築くことになる。一方、西軍の実質的な統率者だった石田三成は、戦いの数日後に捕らえられて斬首されるが、「神君」徳川家康に歯向かった人物として死後も長く江戸幕府から敵視された。
江戸時代に編さんされた歴史書や評伝は、幕府のそうした意向を色濃く反映し、石田三成をことさら小人物として描いたものが多い。特に独裁者・豊臣秀吉のそばにはべる冷酷な官僚というイメージが強く、諸将の武功を握りつぶして恨みを買ったといったエピソードには事欠かない。関ケ原の戦いが起きた原因のひとつに、加藤清正、福島正則ら武断派諸将の三成への強い憎しみがあったとするストーリーも、広く伝えられている。
近年は良質な一次史料(同時代に書かれた文献)を基に、石田三成の人物像を見直そうという研究が増えた。その結果、石田三成は豊臣秀吉の天下取りを支える有能な武将だっただけでなく、与えられた自分の所領を治める上でも、領民から敬われる存在だったという肯定的な人物像が浮かび上がってきた。そうした再評価を背景に、戦国武将を扱うゲームの世界では、石田三成は人気キャラクターの一人に数えられている。
ただ、江戸時代260年間、徳川家康に歯向かった「悪人」として扱われてきたこともあって、石田三成にまつわる文物の多くは失われ、その人柄を知ることは難しい。また、今に伝わる経歴や事跡についても後世の軍談、講釈などで歪曲(わいきょく)されたケースが目立つ。そこで今回、石田三成が居城としていた近江・佐和山城(滋賀県彦根市)を訪ね、その遺構や城にまつわる史料から武将や領主としての石田三成に近づいてみることにした。
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