旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月7日、沖縄海上特攻の途中、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332人のうち、生還者は276人。
敵機との距離を測る測的手だった八杉康夫さん(87)=広島県福山市=は、沈没寸前の大和から海中に飛び込んだ。溺れかけたとき、上官に「頑張って生きろ」と丸太を渡され、生き残ることができた。
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昭和2(1927)年秋、広島県福山市の豆腐屋で生まれました。小学校でピアノに出会い、中学校に入った時にアコーディオンを買ってもらいました。当時はとても高価な楽器でしたから、夢中になって練習しました。学校の勉強はできる方でした。
太平洋戦争が始まったのは中学生のときです。陸軍は荒っぽいが、海軍はさっそうとしていて格好が良く、ひかれました。海軍が志願兵を募集していることを知ったときは、迷うことなく飛びつきました。
昭和18(43)年に大竹海兵団に入りました。「軍人である前に立派な人間になれ」という団長の言葉を聞き、海軍に入って良かったと思いました。その後、横須賀の砲術学校に配属になりました。そこでは、敵の艦隊や飛行機に大砲を撃つために距離を割り出す「測的」をひたすら勉強しました。成績優秀者だけが選ばれる補修員にも選ばれました。
ある日、分隊士に呼ばれました。昭和20年1月3日のことです。通常なら、上官とは1メートル離れて立たなければいけないのですが、分隊士は「いいから前へ来い。耳を貸せ」と言います。反射的に殴られるのかと身構えると、「いいか、お前の行き先は大和じゃ。良かったな」と耳打ちされました。
「あの船は絶対に沈まない。大和が沈むときは日本が沈むときだ」。憧れの大和乗艦を命じられ、涙が出るほどにうれしかったです。その時は17歳の上等水兵でした。
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