2016年08月05日12時00分
陸軍病院では内科病棟勤務になり、重症患者を扱うことが多かったです。空襲が激しくて、軽症患者は足立山の砲台まで看護婦が引率して避難していましたが、私は重症患者がいて動かせないので、部屋に患者さんといました。
葛藤もありました。友達と一緒に防空壕(ごう)の中で死にたいという気持ちと、お国のために患者さんと病室で死んでもいいという気持ちです。
まだ19歳ぐらいでしたから、気持ちが行ったり来たりして葛藤してましたね。病院への被害はそれほどでもなかったのですが、ただ、西の方が真っ赤になって「福岡が燃えている」と聞きました。空襲警報が発令された時、足立山のサーチライトが米軍のB29を照らしたのですが、機影の大きさには驚かされました。毎晩のように1機だけ病院の真上を飛んでいきました。
原爆投下直後の長崎市内へ入り、被害の状況をレンズに収めた山端庸介氏(故人)撮影の写真を手にする西久保キクノさん。この写真には、救護活動する西久保さんの姿が写っている=2015年6月24日【時事通信社】
1カ月ほど内科病棟にいて、その後、伝染病棟に勤務場所が移りました。将校さんは個室で、兵隊さんは大部屋だったんですね。私は大部屋の病室の担当で、男性ばっかりの部屋で赤面して恥ずかしくて入れなくて、個室担当の看護婦と一緒に尿器交換とかしていました。ほとんどが赤痢の患者さんでしたね。
翌年の昭和20年6月に佐賀陸軍病院(現国立佐賀病院)の隣に久留米の部隊がおりまして、赤痢が発生したというので、佐賀の陸軍病院に戻りました。
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