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列車で駆け付けた長崎 元日赤臨時救護看護婦の証言

2016年08月05日12時00分

養成後、陸軍病院へ

 昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」が雲の切れ間から投下した原子爆弾が、長崎市上空でさく裂した。人類史上2発目の核爆弾使用。広島への原爆投下からわずか3日後のことだった。

 長崎市によると、死者は約7万4000人、重軽傷者約7万5000人に上った。

 当時、日本赤十字社の臨時救護看護婦として、佐賀陸軍病院に勤務していた西久保キクノさんは、婦長の指示の下、翌10日早朝、班員全員で列車に乗り込み、救護のために被爆地長崎へ向かった。

 ◇   ◇   ◇

 大正14(1925)年12月、佐賀県芦刈町(現小城市)に生まれました。5人きょうだいの2番目で、長女です。下に妹が3人いました。佐賀県立病院好生館(現佐賀県医療センター好生館)の看護婦養成所に昭和15(1940)年に入所しました。そこで4年間過ごしました。

 19年3月に卒業して、免許が取れていますから、その年の4月から、山口県の山口赤十字病院救護看護婦養成所で3カ月間、臨時救護看護婦として養成教育を受けました。

 看護婦養成所では、手術の患者さんに輸血する血がなかった時、私の血を使ったことがあったことも覚えています。もう戦争は始まっていましたから、履く白い靴がなく、草履(ぞうり)に白色の包帯を足に巻いて仕事をしていました。

 山口での3カ月の講習が終わって自宅待機の後、19年10月ごろ、小倉(現北九州市)の陸軍病院に派遣されました。その時に713班の配属になりました。

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