旧制中学を卒業後満鉄に入社し、大陸に渡った小野寺哲さん(89)=仙台市=は旧満州の撫順で自動車整備に当たった。終戦間際の1945(昭和20)年7月に徴兵され、ソ連軍の侵攻を受けて敗走。終戦とともに捕虜となり、約2年をシベリアのコムソモリスクの収容所で過ごした。極寒の中で労働に従事し、仮病を使って送還者の「リスト」に入って帰国を果たした。
現在は自分の体験を生かしてほしいと語り部活動を行っている。小野寺さんに当時の話を聞いた。
仙台市の広瀬川沿いで生まれ育った。同市の川内には軍の兵舎があり、工兵隊が訓練していた。軍のやることなすこと、悪意に思ったことはない。それが普通の生活の中にある。とにかく格好よく勇ましいとしか、軍隊を見てそうしか思えなかった。社会全体の構成が戦争へ戦争へ向かっている時代だから。善悪の判断は子どもにはない。
38(昭和13)年に旧制中学(私立栴檀中学)に入った。中学2、3年生になると鉄砲を持って射撃の訓練をしたりした。歩き方とか姿勢とか「軍事教練」って言って、兵隊の基礎訓練みたいなものをしていた。
41年太平洋戦争が始まったとき、「アメリカと戦争して勝てるわけがない」と思った。というのも車だ。アメリカでは車をみんな持っているといううわさがあった。日本じゃ当時町内に1台あるかないか。それくらいの(物資力)の差があった。「ああこれじゃ、戦争に行って死ぬより、満州に行ったら兵隊に行かずに死ぬこともないんでないか」と思って、満州に行った。
南満州鉄道株式会社、満鉄に入ることができた。中学は5年制だったが、その頃1年繰り上げて卒業式をした。茨城県で満蒙開拓団の組織訓練などを受け、朝鮮を経由して43年3月10日に満州の奉天に行った。
「将来は車の時代」と思い、自動車の勉強をしようと思って満鉄の技術研習所で1年間勉強した。自動車整備や運転を習った。それが今日生きて帰ってこれたあれ(理由)だ。
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