日中戦争中の1940(昭和15)年5~6月、揚子江近くの「宜昌」攻略を目的に旧日本軍が中国湖北省で決行した宜昌作戦。作戦では第3師団、第13師団、第39師団から成る第11軍が指揮を執った。
各師団が3方向から宜昌を目指す中、作戦の前半で第39師団が師団史上、最大の悲劇といわれる「白河の渡河戦」を敢行し、300人以上の死者を出した。激戦を制して6月12日に宜昌を攻略し、宜昌では中国軍の弾薬などを押収して投棄。作戦全体の死傷者は6000人以上に上った。
祖国から遠く離れた戦地に赴いてから70年あまり。銃弾を受けながらも生還した元曹長は忘れようにも忘れられない記憶を、ゆっくりと語り出した。
◇訓練経て戦地へ
39年12月に20歳で第39師団歩兵第231連隊第3中隊に入隊した高東正義さん(96)=広島市南区=は、翌40年4月に中国・漢口に上陸し、「宜昌作戦」に参加した。
入隊すると広島県東広島市の原村演習場で基礎訓練を受けた。銃などの装備が配られ、戦地での野戦に備えて火おこしや飯ごうの仕方などを一から教わった。
数カ月の訓練を経て検閲を受け、一人前の兵士と認められると、40年3月に宇品港から中国に向け出航した。4月に漢口に上陸後、靴下に入れたコメや銃弾120発が入った背のうを背負い、ひたすら徒歩で目的地を目指した。
部隊は上下関係が厳しく、朝晩の飯炊きは初年兵の仕事だった。持参したコメ以外の食料は現地調達で、近くの村の畑から野菜を取ったこともあったという。
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