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サッカー英雄アルバム ディエゴ・マラドーナ

「英雄」「神の子」と呼ばれた男

86年W杯優勝時のマラドーナ(写真右と左、メキシコ・メキシコ市)、86年W杯の練習場にて(同上)、誕生日に家族と過ごすマラドーナ(同下)【AFP=時事】

 ペレ、ベッケンバウアー、クライフ…。いつの時代にも、どの国にも、偉大なサッカー選手は大勢いた。しかし、この男、ディエゴ・マラドーナのインパクトの前には誰もがかすんでしまう。

 86年W杯メキシコ大会の「5人抜き」「神の手」により、マラドーナは母国アルゼンチンの「英雄」「神の子」となった。しかし、イタリア・ナポリで栄光の日々を送るも、薬物所持により所属チームを追われ、転落の日々を過ごす。起死回生を狙った94年W杯アメリカ大会、肥満、心臓病との闘い、そして引退。アルゼンチン代表監督まで務めた異端児マラドーナの生き様をクローズアップする。

|| 国際デビュー 82年W杯アルゼンチン大会

 78年W杯の開催国は、地元アルゼンチン。16歳にして代表デビューを果たしたマラドーナにも期する思いがあった。しかし、代表のセサル・ルイス・メノッティ監督は「経験が浅い。激しさも足りない」とし、代表最終選考でマラドーナをメンバーから外した。アルゼンチンは、「闘牛士」の異名をもつFWマリオ・ケンペスの活躍によりW杯初優勝を果たし、後に英雄と呼ばれる男はその輪には入れなかった。

 そして4年後のスペイン大会、マラドーナはエースナンバー10番を背負い、ようやく大舞台のピッチに立つ。1次リーグのハンガリー戦では2得点を挙げ、才能の片りんをみせた。栄光をつかむかに見えたが、若者を待っていたのは、またしても試練だった。2次リーグのブラジル戦、マラドーナは相手選手の腹を蹴り、レッドカードで一発退場。チームも決勝トーナメントに進めず、大会から去っていった。近い将来、自らを苦しめる激情が、早くも国際舞台で爆発した。

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