世論の変化が顕著に表れたのは、「成功」に対する予測と評価だった。文部省が59~63年に10回行った調査とその後のNHKの5回の調査では「五輪が立派に行われると思いますか」と尋ねた。開催決定直後には「非常に立派にできるだろう」「相当立派にできるだろう」の合計が61%、「あまり立派にはできないだろう」「立派にはとてもできないだろう」の合計が24%だったのが、60年には逆転し、61年5月にはそれぞれ57%、36%と差が開いた。多くの国民が成功を危ぶむ心境になっている。
開催決定から時間がたつにつれ、数々の不安が現実問題となり、危機感につながった。藤竹さんは「当時の国民は、まだ日本の国力に自信がなかった」という。
【問】今度の五輪は2度とない機会だから、経費をかけてもできるだけ盛大にやった方がよいと思いますか 【答】できるだけ盛大にやったほうがよい 19.8%▽今の日本にふさわしい程度にやればよい 59.8%▽一概には言えない 9.9%▽分からない 4.2% (62年10月、総理府、全国、2365人)
だが、そうしたムードは急速に変わり、関心と期待が高まっていく。報告書はその変化を3段階に分けてとらえた。一つはビッグイベントが近づくにつれて関心が高まる自然現象の段階。次は政府とメディアによる「盛り上げキャンペーン」だった。
大会前年の63年初め、全国紙はムードが盛り上がらない現状を憂慮しつつ、引き受けたからには成功させねばならぬ、といった主張を展開。呼応するように、同年2月には総理府が「オリンピック国民運動推進連絡会議」を設置し、各都道府県でも地域ごとの取り組みを展開した。
国民の関心度と知識は目に見えて高まり、開幕へ突っ走る。成否の予想は再び拮抗し、63年5月には完全に再逆転すると、後は差が開き続けた。藤竹さんは言う。
「結局やるからには仕方ない、成功させなければ、となって道路も造り、施設も造り…今の日本の形を無理やりつくった。日本橋のように歴史のある所へ高架を通してしまったり…。それが今も引きずられているが、何しろやってしまった」
反対論も低調になった。「意図がどの程度あったか分からないが、マスコミも一役買ったのでしょう。一般の人も、よほど反対の人以外は、なるようになるという心境だった」
第3の推進力は聖火リレーだった。開会式約1カ月前の9月7日に沖縄へ着いた聖火は、四つのルートに分かれて北から南から東京を目指した。今日の東京一極集中を絵に描いたようなルートだが、全国紙の地方版や地元紙は大々的に聖火の到着や通過を伝え、盛り上がりは全国的に飽和点へ向かう。
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