2021年07月26日10時00分
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)で1年延期され、なお混乱が続く中で始まった東京オリンピック。感染拡大は全世界で多くの犠牲者を生み、医療体制の逼迫(ひっぱく)を招いている。困難の時代に開催された開会式には歓声も祝祭ムードもなく、華やかだった近年の五輪とは全く異質のものとなった。
この大会から読み取れるものは何か。敗戦からの復興を世界に知らしめた1964年東京五輪の舞台裏を『TOKYOオリンピック物語』(小学館)で克明に描き、『新TOKYOオリンピック・パラリンピック物語』(カドカワ)の新刊もあるノンフィクション作家の野地秩嘉さんに、寄稿してもらった。
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大会エンブレムのデザイン変更から始まり、組織委員会の森喜朗会長が交代、そして、直前になっての開会式担当者の辞任と解任。学生アルバイトの不祥事、大量に廃棄された弁当の問題…。思えば組織委員会は右往左往し続けた。そして、なお新型コロナの感染者は抑制されていない。
それでも開会式を見るのを心待ちにしていたから、最初から最後までテレビの前にいた。
見終わって納得したことがある。
二つのシーンを見て、オリンピック開会式は価値の変化を映し出すものだと分かった。
一つは選手の入場前に行われたオープニングアクトだ。
近年、オリンピック開会式はショーアップされ、オープニングアクトの出来不出来を問うものになっていた。ポール・マッカートニーが『ヘイ・ジュード』を歌い、007が空から降りてきたロンドン大会のそれはエンターテインメントの質では頂点だった。
ところが、今回のそれはテレビサイズの娯楽だった。技術の最先端を誇るものではなく、日本の文化の到達点を世界に示す気概があったわけでもない。年末の特別番組、「ゆく年くる年」をバラエティー風に味付けしたら、こんな感じになるのでは…といったものだった。無観客だったこともあって、笑いが起こる場面でも競技場の笑いは伝わってこなかった。結果としてテレビの前にいた観客は居心地の悪い思いをするしかない。
しかし、1秒間、考えた後、これからの開会式はこういう形になっていくのだろうと思った。
本来、開会式は国威発揚の場ではないし、エンターテインメントのショーケースでもない。
ショーアップせずに、簡素で居心地の悪さを感じさせたものになって、かえってよかったのである。「本当の観客」が見たいのはオープニングよりも、選手たちの入場だ。入場の様子がきちんと伝わればそれでいい。
期せずして、今回、開会式の本質があらわになった。要するに、選手たちにスポットを当てるのがオリンピックの開会式なのである。
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