2023年09月08日15時00分
非自民8党派の連立による細川政権が発足し、自民党の長期政権が続いた「55年体制」が幕を下ろしてから、8月9日で30年を迎えた。細川政権時代に実現した政治改革は「政権交代可能な2大政党制」を日本に根付かせると期待されたが、2012年の旧民主党政権の崩壊以降、野党の多弱化が進み、政権政党が固定化する「新たな55年体制」が始まったとの見方も出ている。
「55年体制」の終幕によって下野した自民党で政治改革に携わり、自社さ政権で同党を政権に復帰させた河野洋平元総裁、新生党代表幹事などを務め「55年体制」後の政界でも影響力を発揮した小沢一郎立憲民主党衆院議員、そして細川護熙元首相という当時のキーマン3人に、日本政治の進むべき方向性を聞いた。(時事通信政治部 西垣雄一郎、大塚淳子、大津寛子、眞田和宏)
自社さ政権に「葛藤なし」 現行選挙制度見直しを◆自民・河野洋平元総裁
―1993年の政権交代の意義とは。
権力は代わり得る方がいい。長く続けば腐敗する。(当時の自民党政権は)緊張感や高揚感がだんだん薄れ、政権の座にいることが当たり前になり、意欲が少し薄れてきていた。金権スキャンダルも重なり、政権がつぶれた。政権が代わると反対側にも日が当たり、膿んで腐敗することはなくなる。代わったことの意味はあった。
―自民党が下野した時の心境は。
つぶれた最大の理由は党内からの瓦解(がかい)、当時の最大派閥(竹下派)内の権力争いだ。とても残念な思いがした。しかし、党内の古い体質が出て行ったことで党の再建につながるならば、それはそれでいいなと思った。次の選挙で勝って政権を奪還しようと思っていたが、離党者が続いたためにダメージが大きくなり、再起が難しくなるかもという不安はあった。
―93年の衆院選敗北後、党総裁に就任した。
最初は細川護熙首相の支持率がものすごく高かった。細川氏を批判すると世論からたたかれる状況で、どこから攻めるか手掛かりを探すのはとても難しかった。そういう状況の中で連立政権の側がうまくいかなくなった。
―社会党との連立に抵抗はなかったのか。
社会党はすでに非自民連立政権で、より保守的な人たちと連立を組んでいたので、僕らは社会党と十分一緒にできると思った。社会党の体質も変わってきた。国際的にも冷戦が終わり、イデオロギー的な議論よりも現実的に生活の質を上げるためにどうすればよいかが競われる状況になってきた。
◆村山氏は「信頼できる立派な人」
―自身の首相就任にこだわらず、社会党委員長だった村山富市氏を担いだ。
大きい方が譲歩しなければまとまらない。譲歩しても僕らは圧倒的に強い力を持っているので、政策的には自分たちの主張が通ると思った。それに村山氏はとても信頼できる立派な人だ。単に政権に復帰するためではなく、担ぐことが国のためになると思った。
―葛藤はなかったか。
なかった。むしろ、自民党に説明して納得してもらう方が難しかった。村山氏から「わしがやって、お前さんのところは全部俺を支持するかね」と尋ねられ、「100%支持します。私を信用してください」と言い切った。自民党の代議士会(両院議員総会)ではかなり批判もあったが、村山氏と同じ選挙区の議員が「村山氏を担ぐ以外に方法はない」と演説し、雰囲気がガラッと変わった。あと10分で(首相指名の)本会議が始まるギリギリだった。
―そこで河野氏が「首班は自民党から出す」と言い張れば首相になっていたか。
なっていない。そうすれば社会党が支持しない。「自民党が首班だよ」と言えば、社会党は「勝手にやりなさい」となる。われわれには選択肢がない。格好を付けても数が足らない。
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