2023年03月31日13時00分
未曽有のパンデミック(世界的大流行)をもたらした新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、この社会が抱える幾つかの課題を浮き彫りにした。その一つに、専門家の言葉が人々にうまく伝わらなかったこと、「サイエンスコミュニケーション」が十分に機能しなかったために社会不安が増してしまったことが挙げられる。
では、サイエンスコミュニケーションとは何なのか、パンデミックの中でそれはどうあるべきだったのか―。『知の統合は可能か パンデミックに突きつけられた問い』(時事通信社)から、作家の瀬名秀明氏とサイエンスライターの渡辺政隆氏の対談を抜粋して紹介する。
「科学リテラシー」を照らし合わせることから
渡辺 以前、西浦博先生(京都大学大学院教授。理論疫学の専門家として新型コロナのクラスター対策に従事した)と話す機会があり、「自分たちのサイエンスコミュニケーションは、どこで失敗したのかを見直したい」と話されていました。感染症対策に当たってきた専門家の方々も、コミュニケーション不全を気に掛けていらっしゃるということですよね。あえてルビコン川を渡って自らサイエンスコミュニケーションに取り組んだけれど、うまく伝わっていなかった、誤解された、という思いがあるようです。
瀬名 感染症専門家の方々が特にそういう気持ちを持っていらっしゃるということは、どこかでやはり、サイエンスコミュニケーションとか科学リテラシーの今までの方法論では解決できない問題がいろいろあった、ということだと思います。
それで、「サイエンスコミュニケーションとか科学リテラシーのあり方を、今後はどういうふうに考えていったらいいのだろうか」ということを、この分野が専門の渡辺さんが、この2年以上の動きを見てきた上で、どうお考えになっているのかお聞かせください。
渡辺 「科学リテラシー」については、「科学の単なる知識じゃない」ということは、これまでいろいろなところで強調してきました。
それで、「科学リテラシーをキャッチーに表現するとどうなるか」というミニワークショップで、「科学リテラシーというのは、免疫みたいなものである」というキャッチフレーズを思い付きました。要するに、例えば「ニセ科学に感染しないための科学リテラシー」という使い方です。つまり、学校の理科、科学の授業で学ぶ知識だけが科学リテラシーではなく、科学にも限界がある、白黒つけられないグレーゾーンがたくさん残されているということを認識することも、重要な科学リテラシーだということです。
この点を一人でも多くの人が認識しないと、「『専門家』がこう言っているからそうなんだ」とか、「メディアで評論家が『ワクチンは危ない』と言っているから、やっぱり危ないんだ」といった言説をうのみにしてしまいかねない。「危ない」といってもそれは確率の問題で、交通事故に遭う確率よりも小さいかもしれない。リスクとは「危ない」ことではなく、「安全とはいえない確率」のことなんですよね。
瀬名 実はその「科学リテラシー」については、まさに今お話に出た「ニセ科学」関連でぼく自身もいろいろ難しい問題を目の当たりにしてきて、思うところがあります。そこは後で詳しく議論したいのですが、まず科学リテラシーという概念は、一般の人に説明するとしたらどう言えばいいですか。比喩的には「免疫のようなものだ」ということでしたけれど、実際の言葉の意味は…。
渡辺 文字通り説明する場合は、「科学の読み書き能力」と説明しています。自分で活用できる身に付いた科学の知識が科学リテラシーなのであって、単に筆記試験に答えて正解できる知識ではない。言うなれば、「科学の基礎体力」だと。
瀬名 日常の生活で何かあったときに底力となるような、判断の基準となるような科学知識を科学リテラシーというんだよ、ということですね。
渡辺 はい。氾濫しているいろいろな情報の中から、自分にとって有用な情報を適切に得るための科学リテラシー、という言い方もできます。
もう一つ、「サイエンスコミュニケーションには一義的な定義はない」と言い続けてきたのですが、最近は、「サイエンスコミュニケーションとは、互いの科学リテラシーの照らし合わせだ」という言い方をしています。互いの認識のギャップを埋める行為でもある、と。
瀬名 それはつまり、科学リテラシーというのは一つのものではなくて、自分の興味の範囲だとか生活の範囲だとかで、個人ごとに少しずつ基礎体力のあり方が違っている。だから、科学に関するAという考え方の人とBという考え方の人の間で、それを照らし合わせてうまくすり合わせる道を探るコミュニケーションのあり方がサイエンスコミュニケーションだ、ということですかね。
渡辺 すり合わせて合意形成することだけが目的ではありません。
瀬名 では、理解を深めるということですか。
渡辺 互いの違いをまず認識するところから始めることです。科学の専門家と素人という場合でも、専門家は素人の考え方や理解度は知らないし、素人は専門家のことを知らないので。あるいは「専門家」と一言でいっても、いろいろな分野の専門家がいます。分野が違えば考え方も言葉も違う。「互いの」といっても、個人のほかに各種のステークホルダーやコミュニティーが存在します。なのでこれで、サイエンスコミュニケーションをかなり広く定義できるのではないかと思っています。
瀬名 「違いをまず認識するところから始める」というのはいい表現ですね。「俺の意見は科学的に正しい。それが分からない専門外のおまえたちは間違っている。俺の考えに基づいて合意しろ」ではなくて、一人ひとりの専門分野を尊重し、分野ごとに考え方の違いがあることを前提にした上で、互いに耳を傾け合いましょう、という意味が込められている感じがします。
今は「科学コミュニケーション」というよりは、「サイエンスコミュニケーション」というのが一般的なんですか。
渡辺 一般的というわけではないのですが、「科学」という言葉に抵抗感を持つ人が多くて、「サイエンス」というカタカナにするとハードルが低くなるし、数学や工学も入ってくる、さらには人文科学だって、という思いがあります。
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