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稲盛和夫さん逝去後、世間の反応に私が違和感を感じた理由【江上剛コラム】

作家・江上 剛

 稲盛和夫さんが8月24日にお亡くなりになった。ご冥福をお祈りするとともに、稲盛哲学を学ぼうと思う。

 私は残念ながら直接、稲盛さんの謦咳(けいがい)に接することは、かなわなかったが、稲盛さんが主導した日本航空(JAL)再建をモデルにした小説「翼、ふたたび」(PHP文芸文庫)を書いた関係で、JALの幹部や社員から稲盛さんのことを伺っていた。

 私は、JALは稲盛さんでなくては再建できなかったと思う。お亡くなりになって改めて稲盛さんのことを考えると、その偉大さをひしひしと感じる日々である。

 ◆散々な言われよう

 個人的に残念に思うのは、稲盛さんの評価が想像していたほど高くないのではないかということだ。

 確かに経済紙や経済雑誌などでは特集も組まれているが、私的な基準で言えば日本を救ったくらいの偉大な経営者であるから、もう少し政府から弔意を示されてもいいような気がする。もちろん、これは私の誤解かもしれない。

 仮に、そうであるなら、なぜ政府からの評価が低いと感じたのか。これも私の誤解だとは思うが、稲盛さんが旧民主党支持者で、その上、小沢一郎さんを高く評価していたからではないかという気がしている。

 JALの再建も民主党政権の時代のことであったから、なおさらである。自民党政権には嫌われた経営者だったのかなあと思う。しかし、まあ、こんな愚痴めいたことはどうでもいいので、稲盛さんの経営哲学に話を進めよう。

 稲盛さんがJALの再建を担う会長に就任すると多くの人が「?」のコメントを発信した。中には人格攻撃に近いコメントもあった。

 ある評論家は雑誌に「燃えカス経営者」と書いた。なぜ燃えカスかというと、報酬ゼロ、株式も保有せず、腰が引けているからというのだ。高齢で、京セラ創業など功成り名を遂げた老人が、いまさらJALを再建できるのかと、やゆする意味を込めて「燃えカス」と書いたのだろう。

 彼ばかりではなく、他の人々も稲盛さんに批判的だった。航空業界の素人、名誉欲に駆られたか、財界の主流派ではない人にJALの再建ができるか、稲盛教で社員を洗脳し限界まで働かせる、など散々な言われよう、書かれようだった(JALの再建が実現した今、ひどいことを言ったり書いたりした人は、大いに反省してもらいたい)。

 ◆名誉なんて考えてなかった

 JALは半官半民の航空会社で、ナショナルフラッグとして君臨してきたが、1985年には520人もの死者を出す大きな航空機事故を引き起こしてしまった。

 社内は幾つもの組合に分かれ、会社およびグループとしても一体感がなく、親方日の丸的なプライドから脱し切れなかったし、政治家にも総会屋などの企業ゴロにも弱かった。そんな会社だったことが原因なのだろうか、2010年に会社更生法の適用を申請して破綻する。

 こんな難しい会社の再建を乞われて引き受けたのが、稲盛さんである。

 相当な覚悟だったと思う。

 稲盛さんは会見でJALの再建の大義について次の3点を挙げた。

 (1)日本を代表する企業が再建できなければ日本経済はダメなのかという世界の評価となる(2008年のリーマンショック後の日本経済は低迷していた)。

 (2)雇用を守る。

 (3)国民の利便性。JALが破綻すれば国内の大手航空会社は全日本空輸(ANA)1社となり、競争原理が働かない。

 稲盛さんは、マーケットに競争原理が働くことが人々の利益になると考えていた。名誉なんてこれっぽっちも考えていなかった(そんなことを言って批判する人がいたが)。

 ◆「人として正しいか」

 通信事業に新規参入し、第二電電(現KDDI)を創業する際も、毎夜、「利他」について自らに問いかけたという。

 当時、通信事業は電電公社(現NTT)が独占していたが、そこへ新規参入が可能になった。その際、通信事業には全くの素人だったが、稲盛さんは参入を決意した。

 それは、独占ではなく健全な競争原理を働かせるために新規参入が必要であると考えたからだ。そして、誰かがやらねばならないが、それは自分でいいのかと悩み考えたのである。

 通信事業に新規参入しようというのは人々のためか。自社、自分の利益のためではないのか。スタンドプレーではないのかなど自問自答を繰り返した(稲盛和夫著「生き方」サンマーク出版刊)。

 そして、ようやく私心がなく利他の想いであると得心し、新規参入を決断したのである。

 JAL再建の決断も同じだったに違いない。

 稲盛さんを貫くのは非常にシンプルな経営哲学である。それは「人として正しいか」ということである。それは、正直である、嘘をつかないなど、人としての基本的な道徳のような考えだ。

 思想や哲学などという大仰なものではないのかもしれない。しかし、稲盛さんはそれを貫き通すことで経営哲学に昇華させた。

 ◆他人を救済するための経営

 多くの経営者は、それぞれ経営に対する考え方を持っているだろう。それらは見栄を張ったり、言葉を飾ったりするものではないのか、自分の心の中にしっかりと根付いていて、いつもそこに立ち返る原理原則であるかと、自らに問いかけるべきだろう。そうしていれば、日本企業に次々と不祥事は起きないはずである。

 稲盛さんはいつも、「人として正しいか」と自らに問いかけていた。それを「利他」という言葉でも表現されている。「利他経営」である。

 「利他」とは仏教の言葉で、辞書によると「他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと。人々に功徳・利益(りやく)を施して救済すること。特に、阿弥陀仏の救いの働きをいう」とある。

 「利他経営」とは、言ってみれば阿弥陀様の経営なのである。自分より他人を救済するための経営なのである。

 稲盛さんは、いつも「利他」を自らに問いかけていた。

 そして助けるべき他人、他者を身近な人から社会、世界、宇宙にまで広げるべきであり、それが「利他経営」であると言っている。

 この「利他経営」というのは、格差が拡大してロシアのウクライナ侵攻により世界の分断が明確になるなど、グローバル資本主義のひずみが露骨になった現在、資本主義を救う考えであるとフランスの経済学者ジャック・アタリも言い出している。

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