2021年12月28日15時00分
2021年3月2日、ミャンマーの最大都市ヤンゴンの自宅で、私は爆発音を耳にした。
自宅が面しているイエチョー通りをベランダ越しにのぞくと、「POLICE」と書いた盾を持った数十人の鎮圧部隊が近づいてくるのが見えた。
慌ててスマートフォンを構え、ベランダからカメラのレンズだけを出して動画を撮影した。
連発で鳴るスタングレネード(音響閃光手りゅう弾)のごう音の後、殺傷能力の高いショットガンを水平に向け乱射する警察官の姿も見えた。
この動画を撮影した日のおよそ1カ月前の2月1日、ミャンマー国軍はアウンサンスーチー国家顧問兼外相ら政権幹部を拘束し、非常事態を宣言、国政の全権を握った。
突然のクーデターに最大都市ヤンゴンの市民は大きなショックを受け、多くの人が抗議の意味を込めて手近にある金物を打ち鳴らした。国軍は当初、デモを規制するだけだったが、やがて弾圧の度が高まり、デモ隊や市民への無差別射撃で多くの死者・負傷者を出すまでになった。
私の名は北角裕樹。当時ヤンゴンに在住していた日本人ジャーナリストだ。この映像を撮影した翌月、私は当局に逮捕され、政治犯収容所として悪名高いインセイン刑務所へ送られることになる。
夢が奪われたクーデター
まず今回のミャンマーでのクーデターの経緯について振り返ろう。
半世紀もの国軍支配を経て11年に民政移管後、10年の間、ミャンマーでは「これからどんどん国が良くなる」という民主化と経済発展を感じさせる時代の雰囲気があった。私がミャンマーに居を移した14年も、この熱気に包まれていた。
輸入規制緩和によって自家用車を所有することは夢ではなくなった。外資系企業に就職すれば、父親の何倍ものサラリーが手に入った。そして、何よりミャンマー人が喜んだのは、15年の総選挙でアウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したことだ。この時、ミャンマーの未来は明るいと、多くの市民は信じていた。
その後のスーチー政権は、必ずしも国民の期待通りの成果を出せたとは言えない。それでも、国民は初めての民主政権を支持し、20年の総選挙でもNLDは圧勝した。
その一方で民主化の根拠となっていた08年憲法は、国軍の高い独立性を保障していた。このため、スーチー氏らがコントロールできない軍や警察は独自の動きを続けていた。そして20年の総選挙でNLDが再び圧勝したことで、国軍側は危機感を強めていった。
21年に入ると、国軍側は総選挙に不正があったと声高に主張するようになった。しかし国軍が本当にクーデターを起こすと予想した市民は少なかった。 ところが、国軍は2月1日未明、スーチー氏やウィンミン大統領ら政府高官を一斉に逮捕。そして、総選挙の不正を理由に非常事態宣言を発し、国軍が全権を掌握したと発表した。
市民からは「どうすればいいか分からない。もう希望はない」という声が漏れた。友人の1人は言った。「みんな夢があったはず。それが全部だめになってしまった」
「この恐怖が永遠に続くことが怖い」
クーデター2日目の夜、私は車のクラクションの音に気付いた。
自宅のベランダに出ると、クラクションだけではなく、拍手する人、バルコニーをたたく人、歌を歌う人、あらゆる手段を使って音を立てていた。しばらくすると、これは抗議だということに思いが至った。
ミャンマーの伝統で、悪霊を追い払うために騒音を鳴らす習慣に沿ったもので、インターネットで自然発生的に呼び掛けられた抗議活動だという。
そして1週間もすると、街は抗議する市民であふれ返った。全国で数百万人規模のデモが繰り広げられ、市民不服従運動(CDM)という名のゼネストが呼び掛けられた。
ただし、デモ隊は統率が取れており、略奪や破壊行為など一切なかった。自ら規制線を張って交通の妨げにならないようにして、行く先々では、水や食べ物を配るボランティアが活躍した。
デモの参加者は20代半ばまでのZ世代と呼ばれる若者が中心だった。「抗議すれば捕まるかもしれないし、撃たれるかもしれない。しかし、この恐怖が永遠に続くことの方がもっと怖い。クーデターを終わらせるために声を上げないといけない」と、多くの若者から聞いた。市民らはクーデターで奪われた自分たちの未来を取り戻そうとしていたのだ。
当初は、デモ隊とにらみ合いを続けていた警察や国軍だが、2月下旬になるとヤンゴンでもデモの鎮圧が始まった。
25日にヤンゴンでは初めてとみられる発砲によるデモの鎮圧が行われると、国軍側は強硬姿勢をエスカレートさせていった。
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