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7年間で5度の日本一 「常勝軍団」築いたソフトバンク工藤公康監督の軌跡

勝負強い采配と勝利への執念

 プロ野球ソフトバンクを7年間指揮した工藤公康監督(58)が今季限りで退任した。リーグ優勝3度。2位からクライマックスシリーズ(CS)を勝ち上がったケースも含め日本一は5度。勝負強い采配と勝利への執念が光り、チームは日本シリーズなどのポストシーズンで無類の強さを発揮した。ソフトバンクを常勝軍団へと育て上げた軌跡を振り返る。(時事通信福岡支社編集部 近藤健吾)

◇ ◇ ◇

 10月初旬。就任後ワーストの8連敗を喫し、CS進出が危うくなっていた。工藤監督が後に明かした胸の内は、こうだった。「敗戦の責は将が負うものだという僕の思いもあったし、もっともっとできることがあった。もっと自分で行動すべきこともあったのではないか。そこは責任をもってするべきだと思った」

 球団は昨季までの功績を評価し、工藤監督に再三の続投を要請。だが、結果にこだわり続けた指揮官の気持ちは変わらず、一貫してその要請を固辞した。結果的にチームは4位。就任後は初めて、球団では8年ぶりのBクラスでシーズンを終え、潔く身を引いた。王貞治球団会長兼特別チームアドバイザーは「今年は今年で、来年も(続投してほしい)と思っていたんだけど、本人がどうしても、と。すごく意志が固かった」と状況を説明。「本当は来年も勝負してほしかった。たった1年悪くて、それで身を引いてしまうのは、ちょっと残念だと思っている」と感想を口にした。

 10月25日にZOZOマリンスタジアムで行われたロッテ戦が、指揮を執る最後の試合になった。試合前の練習中にはグラウンドのあちこちを歩き回り、長くチームを支えてきた柳田悠岐外野手や石川柊太投手、東浜巨投手らと談笑。握手をする場面もあり、その表情には肩の荷が下りたような、どこか安堵(あんど)した様子さえうかがえた。「ラストゲーム」は監督の下でエースに成長した千賀滉大投手が好投し、今後を担う若手を中心に打線が爆発。15―7の勝利で締めくくった。試合後は孫正義オーナーと王会長がサプライズで登場。花束を受け取って記念写真に納まると、目頭が熱くなっていた。

 その日はあえて自身の去就に言及しなかったが、翌日、球団から正式に退任が発表され、27日に福岡市内で退任の記者会見に臨んだ。就任1年目にいきなりリーグ優勝と日本一、17~20年は4年連続の日本シリーズ制覇。巨人の「V9」に次ぎ、パ・リーグでは最長となった。その年の球界で最も功績を残した選手や監督に贈られる正力松太郎賞には選手時代に1度、監督になってから4度。計5度の受賞は王会長を抜いて歴代最多だ。栄光に満ちた歩みを「幸せな7年間」と表現し、こう続けた。「たくさんの思い出がある。つらい時もあった。でも、僕にとってのこの7年間というのは、夢のような素晴らしい日々だった」

王会長に恩返しを

 秋山幸二前監督の後を継ぐことになったのが、2014年のオフ。背景には、ダイエーに在籍した時に監督だった王会長に対する恩返しの気持ちがあった。現役引退後は解説者として活動し、指導者経験はなし。「まだ道半ばの自分だったが…」。決断を後押ししたのは、王会長の存在だ。ダイエーでプレーしたのは1995年から初のリーグ優勝を遂げた99年までの5年間。現役時代は西武、ダイエー、巨人、横浜、最後に西武と渡り歩き、在籍期間では西武や巨人より短い。それでも「王会長にお世話になり、恩を受けた。いつか返せる時が来ればという思いはあった」。それが決め手となった。

 工藤監督にとって王会長とは―。退任会見で問われると、感謝の意を述べながら、ダイエー当時の記憶をたどった。当時の王監督は、監督室を開けて選手が出入りできるようにし、一人ひとりと向き合う時間を大事にした。工藤投手も悩みを打ち明け、相談に乗ってもらったことがあった。「王会長の監督としての器というか、人としての器の大きさをすごく感じることができた。人としての大きさを一番尊敬しているし、僕自身もそうなりたいと思って、7年間やらせてもらった」。弱小から脱皮して強いチームへの礎を築いた王監督がいたからこそ、今のソフトバンクがあり、いつしか常勝と呼ばれるようになった。その系譜を受け継ぎ、球団史に名を刻んだ工藤監督。王会長は「ほかに素晴らしい人(監督)というのはごく少数。長い歴史の中でもいないから、本当によく頑張ってくれた」とねぎらいの言葉を贈った。

 工藤監督を突き動かしてきた一つの思いがある。野球人として、自分に何ができるのか。監督就任前から、野球を通じて人々、特に子どもたちとのつながりを大事にしてきた。2011年の東日本大震災発生後は被災地に何度も足を運び、復興に向けて生きる人々の姿を見た。「少しでも多くの方に元気を届けられたら」と、支援活動や病院訪問もライフワークの一つになった。「監督になって強いホークスをつくることで、夢を与えることもあると思って引き受けさせていただいた」。監督就任に際しても、気持ちは変わらなかった。

 自身の任期中に、ソフトバンクが本拠地を置く九州では16年の熊本地震をはじめ、九州北部豪雨など甚大な自然災害が何度も発生した。義援金の募金や子どもたちを球場に招く活動など、九州唯一の球団として、人々に寄り添うことを忘れなかった。その思いが、工藤監督は人一倍強かった。「九州の地でこれまで、いろいろなことが起こった。野球の神様が、地震や豪雨などで苦しんでいる人の力になりなさいと言ってくれたんだと思う」

「1年でも長く」のために

 この7年間は、長い現役時代の経験と豊富な知識が生きた。プロ野球記録に並ぶ実働29年。志半ばで現役生活を終える選手たちを何人も見てきた。「彼ら(ソフトバンクの選手たち)には1年でも長く野球界で頑張ってほしいし、成功してほしい」。自身が現役時代にそうだったように、選手の状態や体のケアには人一倍の気を使った。

 就任前には筑波大大学院で、今の仁志敏久DeNA2軍監督、吉井理人ロッテ投手コーチとともにスポーツ医学や障害予防のためのトレーニング方法などを習得。野球コーチング論を研究する同大学院の川村卓准教授(野球部監督)の授業にも頻繁に参加し、大谷翔平選手の日本ハム時代の投球フォームについて議論するなど知見を広げた。監督就任後もその姿勢は変わらず、ある年は優勝旅行後に休むことなく一人で渡米し、勉強会や視察に参加。探究心と学ぶ意欲は人一倍で、未知だった監督業はすっかりと板についた。

 けが予防に細心の注意を払いながらも、時にはムチも入れた。就任1年目のキャンプで、今は主力投手になっている東浜や千賀らに走り込みや筋力トレーニングなどの猛練習を課したことがあった。「あの苦しい練習に耐えてよかった、あれをやってきたからまだ自分は第一線でできている、と思ってもらえるように。選手にとってはつらい練習だったと思うが、それこそが何よりも大切だと。僕自身が若い時もそうだった」。厳しい言葉も練習メニューも、全ては選手のため。48歳まで現役を続けたからこそ、選手には「1年でも長く」プレーしてほしい。その思いは、誰よりも強かった。

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