故ディートマー・ローレンツさん
1980年モスクワ五輪で柔道無差別級を制した旧東ドイツのディートマー・ローレンツさんが今年9月に70歳で亡くなった。東西冷戦のさなかに西側諸国の大半がボイコットし、本家の日本もいなかった五輪。柔道の極意とされる体重無差別の金メダルにも片翼の宿命が歴史とともにつきまとうが、同じ畳を踏んだ日本の柔道家たちはその実力を認め、しのんだ。(時事通信運動部 和田隆文)
脱力がうまく、飛ばない
モスクワ五輪の無差別級決勝は、自身より階級が一つ重い95キロ超級を制したフランスのアンジェロ・パリジに優勢勝ちした。東海大柔道部監督として現地視察した佐藤宣践さんは「地力ではパリジが上。それを大きな舞台でひっくり返す。度胸があり、勝負師だった」と振り返る。
多彩で鋭い技を左右から繰り出すパリジに対し、ローレンツさんの柔道はつかみどころがなかった。「ちょっとした拍子に技を引っ掛けたり、いなしたり。投げられずに何となく勝っちゃう。もつれたところで必ず上になっている。試合の流れ、相手の気持ちを読める選手だった」という。
佐藤さんの身にも覚えがある。軽重量級(93キロ以下)を制した73年世界選手権の準決勝で当時新鋭だったローレンツさんと顔を合わせ、勝ちはしたものの一本を取り切れなかった。「バランスが良くて受けが強い。技はそんなに切れないが、足腰が良く、しぶとい選手だった」と振り返る。「この子は必ず出てくる」と感じていた。
ドイツ誌が掲載した1枚の写真を見せてくれた。佐藤さんの袖釣り込み腰をローレンツさんがしのいでいる。右手を畳に付いて、体を曲げていた。「投げられながら力を抜いている。(体が)一本の棒にならず、脱力がうまい。飛ばないし、いったと思ってもいかなかった」と解説した。
変則で、緻密な守備型
モスクワ五輪の2年前、78年の第1回嘉納治五郎杯(現グランドスラム東京)でローレンツさんは95キロ級を制し、日本勢の全階級優勝を阻んだ。決勝は76年モントリオール五輪軽重量級覇者の二宮和弘さんに肩固めで一本勝ち。二宮さんは現役晩年で負傷を抱え、減量にも苦しんでいたとはいえ、日本の監督だった佐藤さんは「二宮に勝ったか。地力が付いたな」と思っていた。
二宮さんはローレンツさんに2度勝ったが、一本は取れなかった。モントリオール五輪4回戦は逆転の技あり、75年世界選手権の無差別級準決勝は2―1の旗判定でしのいだ。「柔らかい腰の強さで、とにかくやりにくい。(決まったと思っても)体をくるっとひねった。技よりも粘り。守備型で負けないタイプだった。ある意味では緻密な柔道をしたんじゃないか」と懐かしんだ。
当時の朝日新聞は「変則的で日本人にはいやなタイプ」と伝えている。佐藤さんは「変型で、まっすぐ立っていない自護体(じごたい)。しゃがみ込むような感じで、やや前傾。重心が低くても、柔らかい膝でバランスを保って動ける。抱えづらく、固めても最後まで倒れない」と評し、左組みでけんか四つにめっぽう強かったという。
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