2021年11月24日10時00分
木谷明弁護士
凶悪事件の被告が無罪を言い渡されるケースはゼロではない。真犯人が別にいる冤罪(えん罪)ではなく、「刑事責任能力」がなかったとされるケースだ。無罪と死刑の分かれ目。いったい裁判所はどういう基準で、どう判断しているのだろうか。元裁判官で、刑事事件に詳しい木谷明弁護士に解説を願った。
◇刑罰の本質「単なる報復にあらず」
殺人・強盗殺人など重大な犯罪を行った「凶悪犯人」に対し、裁判所が「心神喪失」を理由に無罪を言い渡したり、「心神耗弱(こうじゃく)」を理由に軽い刑を言い渡したりすることがある。2021年11月4日に神戸地裁が言い渡した無罪判決はその一例だ。被告は、祖父母と近所に住む高齢の女性の計3人を殺害し、母親らに大けがをさせたとして起訴された。被告の犯行は明らかだったが、裁判所は「心神喪失の疑いがある」として無罪を言い渡した。
遺族は「ただただ絶望している。到底納得できない」と悲痛な感想を述べている。何の落ち度もなく命を落とした被害者や遺族の気持ちは痛いほどよく理解できる。この感想に共感を抱く国民も少なくなく、インターネット上には判決への不満があふれていた。
だが、刑法は「心神喪失者の行為はこれを罰しない」「心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」と定めている。心神喪失者と認められる限り、裁判所はどんな凶悪犯人であっても無罪を言い渡すほかなく、心神耗弱者には軽い刑を科さざるを得ない。
刑法がそのような規定を設けたのはなぜか。それは、刑罰が犯人への「単なる報復」に止まらず、「違法行為をしたことに対する責任」を追及するものと考えられているためだ。単なる報復であれば、凶悪犯には厳しい刑罰を科せば足りる。だが、近代国家では、刑罰の本質は、その行為をした者の「責任を追及する」点にあると理解されている。であれば、刑罰を科し得るのは、その行為を行った者が「違法と判断し、その判断に従って違法行為を思いとどまることができる」のに、「あえて違法行為に出た」場合に限られるべきだろう。そういう能力のない者の「責任」を追及することは「責任」の概念と矛盾する。
善悪を理解できない幼児が放火などの重罪を犯したとしても「刑罰に処すべきだ」と言う人はいないだろう。大人であっても、精神障害で善悪を判断できない人や、判断能力が不足している人はいる。刑罰の本質からすると、そういう人に「善悪を判断できる人」と同レベルで責任を追及するのは、やはり相当ではないことになる。
◇グラデーションでの線引き
では、刑法のいう「心神喪失」「心神耗弱」とは、どういう状態を指すのか。判例が示した定義を分かりやすい言葉で言い換えると、次のようになる。心神喪失者は「精神障害により、行為が違法であると判断し、その判断に従って思いとどまる『判断・制御能力』を全く欠いている人」、心神耗弱者は「それが著しく低下している人」だ。心神喪失者の典型としては、重い精神障害による妄想に支配されて行動した人などが想定される。病状がそこまで重くなく、判断・制御能力が完全には失われていないが、著しく低下している人が心神耗弱者とされるのだ。
だが、精神障害で判断・制御能力が低下する度合いは人により千差万別だ。完全に失っている人から、多少は残っているが、病気の影響を否定できない人までさまざま。いわば一種のグラデーションを形成している。しかし、刑事裁判では、そのような犯罪者を①心神喪失者②心神耗弱者③判断・制御能力に問題のないーの三つに区別することが求められる。グラデーションの中に線を引けば、必然、その前後に位置するものの間に不公平感を抱かせる。これは誠に困難な作業だ。
神戸地裁の事例では、検察官も、被告の判断・制御能力は統合失調症の影響で著しく低下していると認めていたが、「それが全くないということはない」とし、「心神耗弱」の主張をしていた。これに対し神戸地裁は、被告が統合失調症による妄想の「圧倒的な影響下」で犯行に及んだと考えられ、「心神喪失の疑いがある」と判断した(検察官が控訴)。
次のような事例もある。元海上自衛隊員の被告が、友人Aの妹Bに好意を抱き、求婚したが断られた。被告はA一家を殺害しようと企て、深夜A方を訪れた。A方まで乗り付けたハイヤー運転手を人質同然にしてA方に上がり込み、用意していた鉄棒で就寝中の幼児(Aの姉の子)3人や駆け付けた近隣住民などを殴打。計5人を殺害、2人に重傷を負わせたという残忍なものだった。
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