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新選組の武術「天然理心流」 今も残る土方歳三の技とは

 映画「燃えよ剣」の主人公・土方歳三は、武術「天然理心流」の達人として知られる。

 土方が所属した新選組が活躍した幕末期、国内の社会不安が高まっていたこともあって剣術ブームが巻き起こり、武士だけでなく町民、農民も剣術修行に熱を上げた。映画でも、土方が武蔵・多摩地域を薬売りとして回りながら剣術修行をする姿が描かれている。

 幕末に剣術の流派は200以上あったとされるが、正確な記録が残っているわけではないので、確かなことは分からない。天然理心流についての記録も少なく、その実態は不明な部分が大きい。そこで、限られた史料から分かることと、天然理心流を現代に伝承する活動に関して、ここでお伝えしたい。(時事通信解説委員 武部隆)

◆映画「燃えよ剣」特設ページ◆

競技剣道とは異なる幕末の「撃剣」

 「剣術」というと、スポーツとして普及している「剣道」を思い浮かべるかもしれない。防具を着けて竹刀で打ち合う「撃剣」が幕末に流行し、それが近代剣道につながっていることは確かだが、当時の撃剣は命のやりとりをする実戦を前提にした戦闘技術で、共通のルールを守って技の優劣を競う剣道とは、本質がまったく異なる。「負ければ死ぬ」というのが当時の剣術だったのだ。

 さらに、当時の剣術流派は長刀による打ち合いだけではなく、小太刀を使った接近戦、身体全体を使った組み打ちなど、白兵戦で必要な技術を組み合わせた総合武術だった。命のやりとりをする以上、ルール無用で相手に勝つことを目的にした「何でもあり」の世界だといえる。

 映画「燃えよ剣」で描かれる土方歳三や沖田総司も、現代の競技剣道では禁止されている脛(すね)打ちを使ったり、強い相手に闇討ちを仕掛けたりといったことをしている。当時においては、これらが相手を倒す技や戦術であり、決して「卑劣」とは捉えられていなかったことを理解すべきだろう。

 それでは、土方歳三が学んだ天然理心流は、どのように生まれたのだろうか? 限られた史料を基に天然理心流の実像に迫ろうとした著作「武術 天然理心流」(小島政孝著、1978年出版)によると、幕末の剣術流派の源流はいずれも室町時代以前に創始された「天真正伝神道流」「陰流」「中条流」で、天然理心流はこのうちの天真正伝神道の流れをくむという。

 天然理心流の始祖とされる近藤内蔵之助は、主に寛政年間(1789~1801年)から没した文化4(1807)年まで江戸・薬研堀(現在の東京都中央区東日本橋付近)に道場を構えていたとされる。当時はまだ幕末の剣術ブームが始まる前で、剣術道場に入門者が殺到するといったことはなかった。そのため、内蔵之助は薬研堀の道場で弟子を教えただけでなく、江戸の西側の武蔵国・多摩(東京都のかつて旧北多摩郡、旧南多摩郡だった26市と西多摩郡)や相模国(現在の神奈川県)に自ら出稽古に赴き、流派の拡大に努めた。

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