いかつい顔立ち。身長173センチにして、体重100キロの体格。そこから繰り出す快速球と切れ味鋭い変化球を駆使して、21歳の右腕が堂々たるプロ野球記録をつくった。西武の4年目、平良海馬投手。7月1日、ソフトバンク戦(ペイペイドーム)で救援して39試合連続無失点とし、2006年に藤川球児(阪神)がマークした38試合連続を超えた。6日の日本ハム戦(旭川スタルヒン)で失点して記録はストップしたものの、若き剛腕の進化は止まらない。東京五輪代表にも選ばれ、「侍ジャパン」の重要な一翼を担う。(時事通信運動部 小野田有希)
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39試合連続無失点とした状況はこうだった。1-0の九回に登板し、2安打を浴びながらも相手の走塁ミスにも助けられて1回無失点。試合後、新記録の達成に関して「運です」と謙虚に話した。
走者の有無に関係なくクイックモーションで投げる独特のスタイルだ。昨年7月の楽天戦で、自己最速となる160キロをマーク。今季はチェンジアップを改良して投球の幅を広げた。平良に対し、周囲は「自分のやるべきことを、すごくよく分かっている」と口をそろえる。自ら道を切り開いてきたからこそ、「運」も呼び込めるのだろう。
無名の高校時代に150キロ超
沖縄県の石垣島(石垣市)出身。5歳ぐらいの頃、父が運転する車で小学校のグラウンドを通りかかった際、子どもたちが練習する姿を見て野球に興味を抱いたという。小学生になって、プレーを始めた。地元の八重山商工高に進学。同校は2006年、大嶺祐太投手(ロッテ)を擁して春夏の甲子園に出場した。平良は甲子園の経験がなく、全国的には無名の存在だったが、3年生になった17年春には球速が150キロを超え、プロのスカウトから注目されるようになった。
最後の夏は全国高校野球選手権沖縄大会1回戦で、0―1の惜敗。その試合を、西武の元監督で当時シニアディレクターだった渡辺久信ゼネラルマネジャー(GM)が視察していた。「見ておきたかった」と、急きょ予定を変更して球場に駆けつけた。
渡辺GM、体幹の強さを評価
平良は上背こそないが、本格的にウエートトレーニングに取り組んでいたから、体がどっしりとしていた。かつて西武のエースとして鳴らした渡辺GMは当時の印象について、こう振り返る。「体幹が強くないと、クイックであの球はまず投げられない。そういう体幹の強さを高校時代から感じた。バランスの良い投げ方だったのが大きい」。フィールディングやけん制など総合力の高さも評価。ドラフト4位で指名した。
その17年ドラフト会議。高校生はどんな選手が指名されたのか。際立っていたのが清宮幸太郎(東京・早稲田実高)で日本ハムの1位。さらにロッテ1位の安田尚憲(大阪・履正社高)、ヤクルト1位の村上宗隆(熊本・九州学院高)、広島1位の中村奨成(広島・広陵高)が代表格だろう。夏の甲子園優勝投手の清水達也(埼玉・花咲徳栄高)は中日の4位。こうした顔触れの陰に隠れていたのが平良だったと言える。
3年目の急成長、中継ぎで新人王
プロデビューは2年目。19年7月19日のオリックス戦(メットライフドーム)で、1回を無失点に抑えた。その後も好投を続け、徐々に重要な場面を任されるように。ただし、制球面では粗削りな部分もあった。同年秋のキャンプから、チームに豊田清投手コーチが加入。西武での現役時代、先発の柱だったが右肘の故障で離脱。手術を経て、後に抑えに転向して活躍した。その豊田コーチが明かす。「(就任直後に)いろいろ話を聞くと、試合前のブルペンで、ほぼほぼストライクが入らず、そのまま試合に行っていた、と。ブルペンキャッチャーが取れない球も多かったと聞いた」
そして3年目、20年の春季キャンプ。先発転向を志願した平良はブルペンで投げ込む日々を送った。「数を投げることに取り組んで、すごく制球が安定してきたと感じ取れた。どう投げたらここにいく、というのをすごく突き詰めているように感じた」と豊田コーチ。先発転向は成功しなかったが、救援投手として安定感を発揮する礎となった。
シーズン途中からセットアッパーに定着。54試合に登板して1勝0敗1セーブ、33ホールド、防御率1.87の好成績で、新人王に輝いた。平良は「1年目から菊池雄星さん(現マリナーズ)とウエートトレーニングをやらせてもらえて、その成果が出ている。体のバランスが良くなった」。18年にチームメートだった尊敬する先輩への感謝も口にした。
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