「働く人々は、定住か遊牧か選べるようになる」。四半世紀も前に、ある日本人技術者が予言したことが現実になりつつある。引き金は、新型コロナウイルスの流行だ。世界のオフィス街から突然姿を消した人々は、くつろいだ様子で自宅のリビングから、旅先の街から、リゾート地のホテルから、パソコン画面に向かい、業務について上司や同僚と語る。オフィスの必要性に頭を悩ませる経営者を尻目に、従業員の間には旅をしながら働く「デジタルノマド(nomad=遊牧民)」が現実的な選択肢となりつつある。(時事通信外経部 山本拓也)
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夕闇の中、世界最大の商都に林立する摩天楼群が赤や青に鮮やかに照らしだされた。米ニューヨーク州の中心マンハッタンで2021年6月15日、新型コロナワクチンの成人接種率が7割に達したことを祝う花火が打ち上げられた。クオモ州知事は「思い描いていた日常が再開することを祝福する」と高らかに宣言。久しぶりの祝賀ムードに包まれた。
2001年の同時多発テロや2008年のリーマン・ショックをも乗り越え、成長を続けてきた世界経済の心臓部。しかしさしものマンハッタンも、今回ばかりは同時多発テロやリーマン・ショック後とは様相が違っているようだ。
米紙ニューヨーク・タイムズは2021年3月、マンハッタン中心街区の空室率がコロナ禍で過去最大の16.4%に上ったと指摘。テレワークの普及で大都市部からオフィスを引き払う動きが加速しているとし、「マンハッタンは元に戻らないだろう」と伝えた。
実際、巣ごもり需要で大きく売り上げを伸ばした音楽配信大手のスポティファイ・テクノロジーは2021年2月、マンハッタンのオフィスで働く2000人以上の従業員を含む世界の全社員に、在宅はもちろん世界のどこで働いても構わないとの方針を打ち出した。「成果は職場で過ごした時間では測れない。より重要なのは、成果が出る場所をどれだけ自由に選択できるかだ」と従来型オフィスからの決別を強調した。拠点がない地域で「出社」を希望する場合には、提携するコワーキングスペースなどを利用できるよう支援する徹底ぶりだ。
従業員の働く場所を制限しない企業の形態は「WFA(ワーク・フロム・エニウェア)」と呼ばれ、コロナ流行を契機にIT企業の間で導入の動きが広がった。SNS大手のツイッターやフェイスブックをはじめ、顧客管理ソフトウエア大手のセールスフォース・ドットコム、インドのIT大手タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)など、枚挙にいとまがない。日本でも電子決済サービスのPayPay(ペイペイ)などが先鞭(せんべん)をつけた。
◇「WFA」で人材確保
WFAが企業などにもたらす明白な利点は二つある。一つはオフィス賃料の節減だ。1万2000人を超える職員を抱える米特許商標庁(USPTO)は、6割近くが出勤を前提としないフルリモートで働く。テレワーク利用者の比率は年々拡大しており、2020年は年間5000万ドル(約55億円)以上の賃料圧縮効果があったという。
もう一つの利点は、優秀な人材を確保しやすくなるという点だ。暗号資産(仮想通貨)交換業最大手コインベースのブライアン・アームストロング最高経営責任者(CEO)は、「世界のどこからでも優秀な人材を確保できるようになる」と導入理由を同社ブログで説明した。特にIT人材の獲得競争は激化しており、米コンサルタント会社コーン・フェリーは2030年までに世界中で8500万人が足りなくなると試算する。新興企業にとって優秀な技術者の確保は死活問題で、抱えている人材をつなぎ留める意味でもWFAは重要な経営戦略になる。
日本国内も事情は同じだ。ソフト開発のアステリア(東京都品川区)は、JR大井町駅に程近いビルの2フロアを本社オフィスとしていたが、2020年12月に1フロアを引き払い、年間約5000万円の賃料を圧縮した。テレワークを推進しており、在宅での業務環境改善に力を入れていくとしている。
アプリ開発会社クリンクス(東京都中央区)は、デジタル分野で高度な技術を持つ人材を求めてテレワーク専門社員を募った。すると、「通常の採用では絶対に集まらない」(広報担当者)ほど大量の希望者が殺到した。地方からだけでなく、都市部でも一人親や介護といった出社が困難な理由を抱えている人から応募があったという。
もちろんWFAには懐疑的な見方も根強い。マイクロソフトのキャスリーン・ホーガン最高人事責任者(CHO/CHRO)は、ブログに「従業員同士が職場で共に過ごすことには価値がある」と記載、無制限なテレワークの導入は否定している。金融大手JPモルガン・チェースのジェームズ・ダイモンCEOも「若手やバリバリ働きたい人にとっては有効ではない」との見方を示していると複数メディアで報じられている。
セキュリティー面や労務管理上の課題だけでなく、従業員の帰属意識低下や孤独感などを懸念する声もあり、まだまだ試行錯誤の段階だ。それでも、経済活動再開で出社を求める会社が増える中、在宅勤務を継続したい従業員が離職に至るケースも顕在化してきた。製造業でもテレワークの恒常化について議論している社もあり、企業間で対応に差が出そうだ。
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