「元気ですかー!!腸が剥がれちゃったみたいで、また再入院してます」。アントニオ猪木さんがYouTubeチャンネル「最後の闘魂」で、やせ細った自身の姿を公開しました。リングから永田町へ舞台を移し、破天荒な言動で注目を集めた猪木さん。「政治家・猪木」はどんな思いで活動を続けてきたのか。その軌跡をたどったノンフィクション『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』の著者、小西一禎さんに寄稿していただきました。(時事ドットコム編集部)
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史上初のプロレスラー出身国会議員として、2期12年にわたり参院議員を務めたアントニオ猪木氏(78)は、肉体的にも精神的にも常に敵と闘い続けてきた。苦杯をなめた時、勝利を収めた時、勝敗が付かなかった時。猪木の政治ヒストリーを取り上げた『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社・2021年4月刊行)では、リング上で歴戦を繰り広げてきた幾多のライバルのみならず、プロレスをばかにする世間、議員時代には永田町のお作法や価値観、自らを異端視する周囲との闘いぶりを記した。そして今、最強の敵との闘いが最終章に差し掛かっている。
闘いの原点は「怒り」
「せっかくなら、ぶった切るような、世の中への怒りを込めたタイトルにした方が良いですよ。何をするにしても、タイトルはとても重要ですから」
昨年、猪木本人へのインタビューをすべて終えた筆者に、猪木が著書のタイトル名を尋ねた時の言葉だ。最終的には、猪木が引退試合で披露した詩「道」と、その壮絶な人生を道になぞらえ「猪木道」に落ち着いた。ただ、猪木の生き方と「怒り」は切っても切り離せないものだと強く実感したのを思い出す。
猪木が繰り広げてきた闘いの原点には、いつも怒りがあった。ジャイアント馬場と同じ日にデビューしたにもかかわらず、師匠の力道山は馬場ばかりを優遇、付き人に据えた猪木を冷遇し、時には鉄拳制裁も辞さなかった。近年こそ再評価されている史上最強ボクサー、モハメド・アリとの異種格闘技戦は、当初「凡戦」やら「茶番」などと非難された。
1989年の参院選出馬の時は、消費税反対で「国会に卍(まんじ)固め、消費税に延髄切り」を掲げて初当選。その後のイラク人質解放劇では、国会議員や政府、メディアからの激しいバッシングを反骨心に変えた。北朝鮮訪問を繰り返したのも、遅々として日朝間交渉が進まない政府への怒り。これらすべてに通じるのは、猪木を象徴する有名なフレーズのひとつ、まさに「バカヤロー!」の境地だ。
少年の日、ブラジルで見た光
猪木が最も印象に残っている国会質疑として挙げる「UFO議論」。2015年4月の参院予算委員会で、中谷元防衛相(当時)に「宇宙人がいるのかいないのか、私には分かりませんが、考え方を変えれば、何かが領空侵犯をしているということになる。今までにスクランブル(緊急発進)を掛けたことがあるのか」と正面から尋ねた途端、議場にいた議員数人が「何を言っているのか」と小ばかにした。苦笑いを浮かべていた議員の顔を、この先も忘れることはないという。
「人を小ばかにしようと何しようと、まあ構わない。でも、政治やバッジという権威の中に座って、そういう目線から見ていると、世界全体がどうなっているのか、との視点が欠け、頭が回らなくなるのではないかな」
14歳で家族とともにブラジルに移住し、コーヒー農園で働いていた時のある日の夕方、地平線から何かが光り、反対の地平線に消えていったのを見たとの少年時代のエピソードを踏まえて質問した猪木。レスラー時代に加え、議員時代も「独自外交」で世界を回っていた経験からすれば「温室で育ち、永田町であぐらをかいている、お前ら若造議員に何が分かるのか」との思いからくる憤りだ。
イラク訪問後のバッシング
初当選翌年の1990年夏、イラクが突如、隣国のクウェートに侵攻し、イラク危機が勃発した。両国在住の日本人ビジネスマンらは人質として軟禁され、日本に帰国した家族と離ればなれになった。「現地で何が起きているのか知りたくなった。いても立ってもいられなくなり」(猪木)、単身でイラクに乗り込んだ後、要人と相次いで会談し、人質解放に向けたパイプ作りに成功。手をこまねいていた政府の先を走る行動だった。
意気揚々と帰国した猪木を待ち受けていたのは、プロレスラー出身の1年生議員に対するすさまじいばかりの非難と嫉妬。「外交の一元化に反する売名行為だ」「新人のくせに生意気だ」などの声にさらされた猪木は、政治家としての自らの役割を問い、見つめ直した。そして「身体を張って生きてきたので、それを貫く。野党議員で、自分の名前がある程度通っている俺だからこそ、できることがある」と奮い立たせ、人質解放を目指した闘いを続けることを決意した。
同年12月の3度目となるイラク訪問には人質の家族も同行。難航していたイラク側との交渉を何とかまとめ上げ、人質の解放を実現させた。帰国した直後の国会で「いろんな批判が高まっているが、この声を謙虚に聞き、今後の日本の政府のあり方、外交のあり方にひとつ反省していただきたい」と述べ、人質家族にイラク行きを自粛するよう求めた政府、外務省をチクリと刺すことを忘れなかった。
30年以上が経過した今、猪木は「プロレスをばかにする世間や風潮と長年闘ってきましたが、よくもまあつぶされなかったと思いますよ」と振り返る。
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