会員限定記事会員限定記事

日本の死刑基準を確立した少年事件の歴史 少年法改正、顕著になるダブルスタンダード

「特定少年」実名報道も

 通常国会が6月16日に閉会した。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が発出されていた今年1月に召集され、再びの発出期間中に閉会するという異例の通常国会だったが、それでもさまざまな法案が可決成立している。中でも注目したいのは、少年法の改正だ。新たに18歳と19歳を「特定少年」と位置付け、厳罰化と実名報道を可能にしたのが大きな特徴だ。だが、少年法はもともと更生を目的としているにもかかわず、18歳と19歳は以前から死刑が認められる「グレーゾーン」として運用されてきた。しかも、少年事件によって日本の死刑の判断基準が確立されてきた歴史がある。(作家・ジャーナリスト 青沼陽一郎)

◇ ◇ ◇

 少年法は20歳未満を対象とし、罪を犯すと家庭裁判所に送致される。現行の少年法では、16歳以上で故意に人を死亡させた殺人罪などに限り、原則成人と同様の刑事手続きを取る検察官送致(逆送)の対象とされた。改正法では「特定少年」に限って、逆送の対象を罰則が1年以上の懲役または禁錮に当たる強盗罪や強制性交罪などに広げ、厳罰化する。

 また、将来の社会復帰を重視して、本人が特定される氏名や顔写真などの報道を禁じていたが、「特定少年」は起訴(略式を除く)された段階で報道が可能となる。

 少年法は、公職選挙法の改正によって2016年に18歳以上に選挙権が与えられたことから、民法とともに見直しが求められていた。民法は既に18歳以上を「成年」と改正されたが(2018年成立、2022年施行)、少年法はいわゆる「少年法の精神」に後ろ髪を引かれるように「特定少年」で決着させた。それでいて、死刑については都合良く成年と同等に扱っている。

母子殺害、死刑求め差し戻し

 死刑が確定した少年事件として広く知られる直近のものに、山口県光市母子殺害事件がある。妻と子どもを殺された遺族の本村洋さんが一審、二審の無期懲役判決に、「これで死刑でないのはおかしい」とマスメディアに厳しい表情で訴えた姿は強烈な印象を残した。

 事件は1999年4月、山口県光市の集合住宅で起きた。当時18歳1カ月だった少年が水道工を装い、乱暴目的で本村さんの自宅に入り、妻=当時(23)=を絞殺。一緒にいた生後11カ月の長女を床にたたきつけ、首を絞めるなどして殺害した。遺体はそれぞれ押し入れと天袋に隠し、妻の財布を持って犯行現場を立ち去った。

 家裁から逆送された少年は、一審で検察から死刑を求刑されるが、山口地裁は無期懲役を言い渡す。検察が控訴したものの、二審の広島高裁でも無期懲役となった。これを受けた夫の記者会見の模様は前述の通りで、多くのメディアが大きく報じた。検察はさらに上告。すると、最高裁が弁論期日を指定してきた。最高裁が弁論を開く場合は、判決が見直されることが多い。

 案の定、最高裁は無期懲役とした控訴審判決を破棄し、広島高裁に差し戻している。すなわち、遺族の夫が強く主張したように、少年犯罪とはいえ、これで死刑でないのはおかしい、と最高裁が判断したことになる。

 私は、この事件の差し戻し控訴審を広島高裁で傍聴取材してきた。そこで少年は、弁護団が新たに入れ替わったこともあって、それまで罪を認めて反省を貫いてきた一審、二審の主張を変え、性的暴行目的を否認。不意に相手の女性を殺害してしまったことから、生き返らせようとして性的行為を行ったと主張した。それも山田風太郎の小説「魔界転生」の記述から思い立ったという。さらに遺体を押し入れに隠したことについて「ドラえもんが何とかしてくれると思った」などと主張した。誰もが知るドラえもんの寝床は押し入れであることから、そう思ったと法廷で語っている。

 さすがに少年の口から「ドラえもん」が出てきたときには、傍聴席でメモを取る私のペン先が震えてしまったことを記憶している。あえて子どもとしての幼稚さ、精神的未熟さを演出しているようにすら見えた。

 それが裏目に出たのか、広島高裁は改めて死刑を言い渡した。これを不服とした被告弁護側の上告も、2012年2月20日に最高裁が棄却、死刑が確定している。

基準を導き出した少年事件

 検察が死刑を求めて上告し、最高裁が差し戻す判断を下したのは、光市母子殺害事件で3件目だった。今のところこれが最後で以降はない。それだけ異例のことと言えるが、その最初となった事件がいわゆる「永山事件」だった。これも当時19歳の少年による事件だった。ちなみに、残る1件の一般刑事事件は、光市事件と同じく広島高裁に差し戻されている。(※1)

 この永山事件の差し戻しに当たって、最高裁が死刑の基準を明確に示した1983年の判断こそが、のちに「永山基準」と呼ばれるものだ。

 1968年10月、東京都港区のホテル敷地内で警備員が1人、拳銃で射殺されたことに始まり、11月までの間に京都で八坂神社の警備員が、函館と名古屋でそれぞれタクシー運転手が連続して射殺される事件が発生。翌年4月に当時19歳だった永山則夫が東京都内で逮捕された。拳銃は在日米軍横須賀海軍施設から盗んだものだった。永山則夫の名前は、獄中から「無知の涙」を出版するなど作家活動を始めたことで世間にも広く知れ渡る。

 一審の東京地裁は死刑判決を言い渡す。ところが、二審の東京高裁では、永山の生い立ちに触れ「極めて劣悪な生育環境」から精神的には未成熟で18歳未満とほとんど変わらないなどとして、死刑判決を破棄して無期懲役としたのだった。

 これに検察が上告。最高裁では量刑を不当として、高裁に差し戻す判決を言い渡している。死刑を求めての検察の上告も、最高裁が死刑でないことを理由に差し戻すことも、戦後の刑事裁判において初めてのケースだった。

 この時に、最高裁が判決の中で示したものが、その後の死刑判断の基準となっている。すなわち、①犯罪の性質②動機③殺害方法の執拗(しつよう)性、残虐性④殺害された被害者の数⑤遺族の被害感情⑥社会的影響⑦犯人の年齢⑧前科⑨犯行後の情状―である。これらに加えて、「その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものと言わなければならない」とした。

 差し戻された東京高裁で永山は死刑が言い渡され、1990年4月には最高裁がこれを支持して確定している。1997年8月、死刑が執行された。

※1 いわゆる広島独居女性殺害事件

新着

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ