米中覇権競争が鮮明になる中、4月の日米首脳会談では、脱中国依存を視野に入れた半導体の新たなサプライチェーン(供給網)構築や、高速大容量通信規格「5G」網整備に向けた連携も共同声明に明記された。村山裕三・同志社大大学院教授は「バイデンのアメリカ」をテーマに日本記者クラブで会見し、米国の経済安全保障政策を詳述。バイデン政権の理念や人権を重視する政策が、日本の経済活動に与える影響は大きいと指摘した。会見はオンライン形式で4月27日に行われた。
(2021年6月9日)
80年代、脅威は日本だった
経済安全保障というのは、経済と安全保障が重なるところに存在する分野だ。安全保障の視点、安全保障のレンズを通して見たら、経済はどう見えるかということ。国際環境がキーで、これが変わると安全保障のレンズも変わってくる。時代によって、国によってもレンズは違ってくる。
米国で経済安全保障というコンセプトが出てきたのは、1980年代初頭のことだ。日本が半導体の競争力を上げ、ここに米国の軍事、兵器が依存していることが指摘され始めた。いざというときに日本から半導体が供給されないのではないか、日本に半導体の研究開発で追い抜かれれば、安全保障に大きな影響を与えるのではないかという懸念だ。
今、米国は中国通信機器大手・華為技術(ファーウェイ)などへの依存問題で騒いでいるが、全く同じ論理。相手先が変わったということだ。
80年代後半にこの波が非常に大きくなる。その時期がちょうど、日米貿易摩擦の時代だった。日本の経済的脅威と旧ソ連の軍事的脅威はどちらが大きいかというアンケートで、日本の経済的脅威という結果が出たりして、大騒ぎになった時代だ。
米国が面白いのは、90年代前半に入って建設的な対応を取るようになったことだ。問題をどうしたら解決できるかを模索し始めた。その中で出てきたのが「軍民統合」という考え方。民生分野で重要なら、それを軍に取り入れるシステムをつくったらいいじゃないかということで、軍民統合コンセプトが出てきて、実行に移された。日本が民で競争力を持つなら、「技術移転」によって米軍に入れればいいとも提唱され、視察団も来た。
ところが90年代中ごろ、日本危機は終焉する。これは急だった。日本経済が停滞し始めたからだ。失われた10年とか20年などと言われているが、そういう時期に入り、日本はもう脅威でなくなった。それで日本危機も急速に忘れられていった。
日本危機を経て米国の何が変わったかと言うと、安全保障と経済をリンクさせる発想が定着したということだ。これからの日米関係を考える上で、安全保障と経済を一緒に考えないと駄目だ、そうすべきだとのコンセンサスが米側にはあった。
一方、中国は1970年代末に軍から民に技術を転換する「軍民転換」を実践した。そして、90年代の米国の経済安全保障などの動きを注視し、2000年代に「軍民融合」を実践し、国家戦略まで引き上げたのはご存じの通りだ。米国の政策をコピーしている。決断が早く、政策策定のスピードが極めて速い。すぐに動き始めるのが特徴だ。
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