プロ野球で「伝統の一戦」とされている巨人―阪神戦が、5月15日の東京ドームでの対戦で通算2000試合となった。球界の黎明期だった1936年に初対決。東西のライバル球団として互いに火花を散らしてきた。大きな節目を機に、巨人で通算868本塁打を放った元監督の王貞治さん(81)と阪神OB会長の川藤幸三さん(71)が、それぞれ時事通信の単独インタビューに応じた。巨人のV9(9連覇)を支えた「世界のホームラン王」と、阪神をこよなく愛する「浪速の春団治」。現役時代の記憶、熱い心情を語ってもらった。(聞き手・構成 時事通信運動部 前川卓也、大阪支社編集部 大和聖史)
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王貞治さんは1959年のプロ入りから80年の引退までに、868本塁打や歴代最多の2170打点などをマークし、本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回。73、74年には三冠王になった。輝かしい記録を残した中で、宿敵の阪神戦には心を燃やした。
「(セ・リーグで巨人を除く)5チームの中でも、常に優勝を争う憎きと思う相手。本当に阪神には負けたくないという思いを強く持っていた」
東京の下町で育った環境も大きく影響している。
「小さい時からラジオや新聞にしがみついていた。当時は新聞の販売店に行くと、巨人関係の本が売っていてね。それを自転車に乗って買いに行き、読んでいた。戦前から巨人―阪神(当時大阪)戦は東京と大阪の戦いだったから、この対戦の記事は多く載っていた」
「阪神入り」一転、家族会議で巨人へ
プロ入り時の曲折も影響した。東京・早稲田実高時代には甲子園に春夏計4度出場し、2年生だった選抜大会では優勝投手に。プロから注目される中、一度は「阪神入りへ」という報道が出た。そこから一転しての巨人入り。背景には家族会議での決意がある。
「僕は最初、阪神に入りそうだったんですよ。(当時阪神スカウトの)佐川直行さんがすごく熱心に誘ってくれて。両親も『巨人は大学出が多く、高校出だと苦労する。阪神に入りなさい』ということだった。でも僕は小さい頃からずっと、地元の巨人に入りたいという気持ちが強かった。最終的に親に『どうしたい』と聞かれ、『巨人に入りたい』と言った。だからこそ、阪神戦には特別な思いがある」
今も耳には、阪神戦の大歓声が残る。とりわけ敵地の甲子園球場は、異様な雰囲気だったという。
「甲子園の銀傘が上からのしかかってくるような感覚がね。お客さんもいっぱい入るから盛り上がった。阪神ファン独特の、あの関西弁のやじというのも、またすごいね。東京とは違うんだなと感じた」
1973年10月22日の大勝
阪神戦の熱気が極限まで凝縮された一戦がある。V9を達成した73年の10月22日。プロ野球で初めてシーズン最終戦の直接対決で優勝が決まるという歴史的な日になった。
その2日前、試合のなかった巨人は最終戦に向けて甲子園球場へ移動した。阪神は中日と敵地でデーゲーム。阪神が勝つか引き分ければ、優勝が決まる状況だった。その試合中、巨人の選手が乗った新幹線がナゴヤ球場付近を通過した。
「新幹線から見えるナゴヤ球場で阪神が試合をしていた。勢いからして、みんなと『絶対に中日は阪神に勝てないよ』と話していた。ところが名古屋駅で乗ってきたお客さんが『今、中日が勝っていますよ』と話しかけてきた。『じゃあ、中日頑張れ』という話をして、大阪に向かっていた。そうしたら中日が4―2で勝った。こっちは勇気100倍ですよ。本当なら消化試合だったのが、優勝決定戦になっちゃったから」
巨人ナインの意気が上がる。対する阪神は敗戦にうなだれていた。2日後。対照的な両チームの決戦は一方的となり、巨人が9―0で大勝。9連覇を決めた。
「(2日前に優勝を決められず)阪神はがっかりしちゃったのかな。こっちは『今年は駄目だな』と思っていたから、『ようし、とにかく思い切ってやろうじゃないか』という感じだった。それであれだけ一方的な試合になり、感激したとかはなかったんだよね(笑い)。でも、1年の最後の試合で決めるというのを経験できたのは大きかった」
試合終了後には阪神ファンがグラウンドに大挙して乱入。大混乱に陥った。
「阪神ファンが怒るのも分かるけど、まさかあそこまでなだれ込んでくるとはね(笑い)。あとで写真を見てみると、げたで殴られそうになっていた。でもベンチが背中に、後ろにグウッと倒れたので、げたが僕の顔の前をピュウッと通っていて。これには僕も運がいいなと思った。ベンチが固定されていたら、僕は殴られている」
756号「やっと出た」
熱狂を力に変え、節目の記録も多く刻んだ。米大リーグのレジェンド、ベーブ・ルースを抜く通算715号は、76年の阪神戦で放った。翌77年のヤクルト戦で、ハンク・アーロンを超える756号が飛び出た。
「本音としては『やれやれ、やっと出た』という感じだった。9月3日だったから、夏休みの最後の方から毎日のように子どもたちが来て、サインを一回りしないと出してもらえなかった。それも今となってはいい思い出だね」
「周りから世界記録だなんだと言われても、僕はピンとこなかった。日本でしかやっていないから。確かに数字的にはそうかもしれないが、ナンセンスだと思っていた」
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