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マラドーナ「5人抜き」を目撃した記者が考える ペレ、メッシとの決定的な違いは?

母国を王座に導いたW杯から35年

 2020年11月、急性心不全により60歳で死去したサッカー界歴代屈指のスーパースター、ディエゴ・マラドーナさん。その名手が主将としてチームをけん引し、母国アルゼンチンを2度目の世界王座に導いた1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会から35年がたつ。彼が最も輝き、不動のアイデンティティーを確立したのがこのW杯だった。35年前の大会を現地で取材し、伝説となった準々決勝イングランド戦の「神の手」「5人抜き」の2ゴールも会場で目撃した記者が、マラドーナとは何者だったのか、なぜファンから深く愛されたのかを改めて考える。(時事ドットコム編集部 橋本誠)

◇ ◇ ◇

 報道の世界で長年生きてきても、自慢できることなど大してない。ただ、子どもの頃からスポーツの世界が大好きで、スポーツから数々のパワーや励ましをもらってきた自分にとって、やはりこの仕事に就いて良かったなと感じる瞬間がある。スポーツの歴史的な場面に遭遇し、それをこの眼で目撃し、感じたことをリポートしてきたという記憶がよみがえる時だ。

 男子ゴルフのメジャー大会で、ジャック・ニクラウスの18勝に次ぐ歴代2位の勝利数を誇るタイガー・ウッズ。そのメジャー15勝のうちの7勝を、現場で取材した。優勝を懸けてウッズが放ったショットがグリーンを捉える音が、今も鮮明に耳に残る。希代のゴルファーの全盛期を、しっかり目撃できたという実感がある。

 五輪なら、1998年長野五輪のスピードスケート男子500メートルで、清水宏保が日本スケート界に悲願の初金メダルをもたらす瞬間を最前線で取材した。担当競技の日本勢が不振で取材してきたネタを披露できないことの方が多かったが、88年ソウル五輪の男子100メートル背泳ぎで、鈴木大地が日本競泳陣16年ぶりの金メダルを獲得したレースも、会場にいて最高に興奮した。

 駆け出しの頃に担当した大相撲では横綱千代の富士の全盛期を取材。米大リーグでは野茂英雄やイチロー、佐々木主浩らの活躍、グレグ・マダックス、ランディ・ジョンソン、ロジャー・クレメンス、ペドロ・マルティネスらの投球、バリー・ボンズ、ケン・グリフィー、マーク・マグワイア、リッキー・ヘンダーソンらの攻守を何度も球場で観察することができた。テニスのピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、マルチナ・ヒンギス、ウィリアムズ姉妹らもしかりだ。

 そして、幸運なことに、あの日も筆者はスタンドにいた。1986年6月22日。メキシコ市のアステカ・スタジアムでのW杯準々決勝、アルゼンチンーイングランド。マラドーナを象徴する二つのプレーで記憶される一戦だ。記者生活を振り返っても、あの日あの場所にいたという事実は、友人、知人に相当自慢したくなる経験だ。

 観客と関係者合わせて12万人が会場を埋めていたとして、日本人は1000人いただろうか。同じ日にプエブラで行われた第2試合のベルギー―スペイン戦を選択したファンもいたはずだ。二つの会場の移動には車で3時間程度かかるから、連盟幹部のようにヘリコプターで移動でもしない限り、掛け持ちは無理。当時の筆者は報道陣の中では最も若い年齢層であり、観客の中でもかなり若い部類だったと思う。35年がたち、目撃者12万人のうち、3分の1ぐらいは亡くなっているのではないだろうか。現役の記者やライターで、この一戦を現場で取材したのは、ひと握りの「超ベテラン」のみ。実に貴重な経験をさせていただいたものだ。

実は凡戦? アルゼンチン―イングランド

 このアルゼンチン―イングランドはW杯の歴史に残る名勝負の一つに数えられている。各W杯を前に、NHKがよく放送する過去の名勝負選にも必ずと言っていいほどラインアップされている。しかし、冷静に見ればこの一戦は「凡戦」とまでは言えないものの、試合のレベルや展開は「中庸」なものだったというのが筆者の見解だ。

 まず、マラドーナという宝石を除くと、両チームのメンバーは結構地味だった。アルゼンチンはどちらかと言えば手堅い布陣。華やかな名手はマラドーナだけで、他はそつなく仕事をこなす「実務派」をそろえた印象が強い。78年大会優勝のヒーロー、FWケンペスや78、82年大会でゲームをつくったMFアルディレス、同じ2大会で守備の要だったDFパサレラらのスター選手が消え(パサレラはメンバー入りも出番なし)、とてもスター軍団と呼べる顔触れではない。

 もちろんアルゼンチン代表だから一定レベル以上の選手がそろっているのだが、強さを発揮したルジェリ、ブラウンの両センターバック、安定感のあったGKプンピードら守備陣はともかく、マラドーナを除く攻撃陣に妙技でファンをうならせるようなプレーヤーはほとんど見当たらなかった。中盤でマラドーナの僕(しもべ)のように働いたバティスタ、決勝戦で決勝ゴールを奪ったブルチャガ、FWバルダーノ。いずれも好選手には違いないが、選手単独で世界のスターかと言うと疑問符が付く。バルダーノは後にレアル・マドリードの強化担当として強力な銀河系集団を編成した功績の方が今や有名かもしれないし、決勝トーナメント1回戦のウルグアイ戦で唯一のゴールを挙げてアルゼンチンの8強入りを決めたFWパスクリの名前や顔を記憶しているファンも、そう多くないのではないだろうか。

 一方のイングランドも、華やかさには欠けていた。確かにシルトンは世界屈指のGKだったし、期待の若手FWリネカーが1次リーグ最後のポーランド戦でハットトリックを決めて覚醒し、一気に期待の星へと「2、3階級特進」を果たしていた。しかし、本来最も信頼できる中心選手だったMFロブソンが1次リーグ2戦目で負傷離脱し、創造的な選手はMFホドルぐらいという陣容。欧州最優秀選手に2度輝き、70年代半ばから80年代前半までチームをけん引したキーガンのようなスーパースターは不在だった。

 スコア上の試合展開も決してドラマチックではない。前半はイングランドがマラドーナを自由にさせないよう守りを徹底し、緊迫感はあっても退屈な内容。後半6分、10分にマラドーナのゴールが決まり、イングランドの反撃を1点に抑えてそのまま逃げ切った。劇的な同点も逆転もない。

 2点を追いかける立場になったイングランドの仕掛けが遅く、最初の選手交代は後半24分。サイド攻撃に活路を求めるしかないことが分かっていながら、攻撃が活性化したのは左ウイングのバーンズを投入した後半29分以降だった。そのバーンズのクロスをリネカーが決めて1点差に詰め寄ったのが後半36分。終了間際にも同じパターンから「同点か」の場面を迎えたのだから、バーンズの投入があと10分早ければ同点シーンが見られた可能性もある。その場合は、延長戦で「マラドーナ劇場」の第3幕を見ることができ、試合のグレードがさらに上がったかもしれない。実際そうはならず、アルゼンチンが逃げ切って4強入りを決めた。

美し過ぎたフランス―ブラジル

 純粋な試合レベルの評価がシニカルになるのは、前日にグアダラハラで準々決勝のブラジル―フランスをこの目で見た反動でもあるだろう。決着がPK戦に委ねられたとはいえ、この一戦は間違いなくW杯の名勝負5傑に入る大熱戦、ハイレベルの攻防だった。フランスは2年前の欧州王者。対するブラジルは不運にも2次リーグで惜敗した82年大会と同じテレ・サンターナ監督が率い、「黄金の中盤」を軸に夢のようなプレーを連発した82年のチームの流れを引いていた。

 流れるようなパス交換と緊迫感あふれる両ゴール前の攻防。ゴールは1点ずつではあったが、互いに持てる技術と体力の限りを尽くし、攻撃に次ぐ攻撃の応酬はあまりに美しく、極上のエンターテインメントだった。フランスは4強に進んだ82年と同じプラティニ、ティガナ、ジレスに、フェルナンデスが加わった中盤が売り物で、アモロ、ボッシら守備陣にもテクニックと攻撃意欲の強い選手がそろう。一方のブラジルは故障の影響で途中出場が続いたものの、ジーコが切り札として控え、ソクラテス、ジュニオールら82年の主力組が健在。前線ではカレカがゴールを量産した。82年にもろさが指摘された守備陣もエジーニョ、ジュリオセザールの両CB、GKカルロスを中心に安定感を増し、決勝トーナメント1回戦までの4試合は無失点。攻撃が伝統の両サイドバック、ジョジマールとブランコは激しい上下動を繰り返し攻めに厚みを加え続けた。

 見ているだけで疲れ切ってしまうような大熱戦を目撃し、プレスセンターと宿舎で原稿を書いて送稿し、翌日の朝早い便に飛び乗ってアルゼンチン―イングランドが行われるメキシコ市へ。前日の興奮に睡眠不足も手伝い、どこかで気が抜けていた面は否めない。量も質も極上の料理を存分に味わった後、目の前で展開されるどこか退屈な前半の展開。今振り返ると、正直言って試合に集中し切れていない部分があったと思う。今、現場でもう一度どちらかの試合を見ることができると言われたら、筆者は迷いなく「フランスーブラジル」を選択するだろう。

 「大会前にアルゼンチンが優勝すると思っていた人は多くなかったね。みんなジーコが勝つのか、プラティニが勝つのかと。アルゼンチンは下馬評で7、8番手じゃなかったかな」。のちのインタビューでマラドーナはそう回想していた。確かに、「マラドーナはいるけれど…」というチーム構成。この大会に関する限り、フランス、ブラジルはもちろん、多くのタレントをそろえたデンマークやソ連、好選手が台頭したベルギーあたりの方が彩り豊かなスター選手を抱えていた印象が強い。

 しかし、アルゼンチン―イングランドは「名勝負」の仲間入りを果たし、アルゼンチンがこの大会の頂点に立った。筆者同様にブラジル戦の興奮と疲れを引きずったフランスは準決勝で武骨な西ドイツに完敗。1次リーグの3連勝で優勝候補に浮上していたデンマークと戦力充実のソ連は16強で止まり、期待を高めていたスペインや地元メキシコも8強で姿を消した。

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