三菱重工業は2021年3月期連結決算で、コロナ禍による航空機需要の落ち込みで純利益は406億円余と半減、国産初のジェット旅客機「スペースジェット」(旧MRJ)事業では1162億円の損失を計上したと発表した。スペースジェットについて三菱重工業は昨秋、開発凍結を発表しているが、再開見通しに関して泉沢清次社長は「市場環境を含め状況は厳しく、そこをよく見極めながら進める必要がある」としか語らなかった。視界は依然不良なままで、開発担当子会社の三菱航空機がある愛知県を中心に、航空機関連産業が集積する東海地方の経済への影響も懸念される。
三菱航空機は2008年の設立時、名古屋市港区の三菱重工業大江工場の建物内に本社が置かれた。同工場は、かつて旧日本海軍の名機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を生産。戦時中、名古屋周辺は三菱のほか愛知航空機などの軍用機工場が集まり、生産だけでなく多くの研究開発も行われていた「先端軍事拠点」だった。しかし、終戦と戦後の混乱により多くの資料や成果、技術が失われ、それがその後の国産飛行機開発にも長い間暗い影を落とした。日本のものづくりの中心地であり、スペースジェット開発の舞台でもあるこの地に戦時中、ひそかに置かれた「名古屋航空研究所」も、その後実態が分からなくなった組織の一つだ。忘れられた幻の研究所の姿を捜した。(デジタル編成部 田中賢志)
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「名古屋航空研究所(名航研)」。その名を聞いたのは、名古屋大学の関係者からだった。「名古屋大学(当時は名古屋帝国大学)も関わっていたようだが、資料もなく、今となってはもはや実態は分からない」。ごく一部の関係者の間で、存在していたことは伝えられていたものの、空襲や終戦時の混乱、さらに戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による航空禁止令を受けて、その資料は焼失・処分・散逸したとみられ、実態は戦後分からなくなっていた。「日本軍用機事典 陸軍篇/海軍篇」「日本陸海軍機英雄列伝」などの著作がある航空史家の野原茂氏も「名古屋航空研究所というのは聞いたことがない。初耳だ」と話した。
戦後に名航研から改組された現在の「名古屋産業科学研究所」(名古屋市中区)に保管された資料にも、ごくわずかな記載しかない。これを手掛かりに、防衛研究所の資料や名古屋大学の同窓会報、その他各種の資料や関係者を時間をかけて当たり、訪ね歩いた。一つのヒントを入手したら、それを基に次に当たった。これらのうち、最も多くの事実を得られたのが、「井上匡四郎文書」だった。
井上匡四郎(1876~1959)は、海軍政務次官や鉄道相を歴任後、「技術院」の初代総裁を務めた。技術院は日本の科学技術政策を所掌した首相直属の政府機関で、太平洋戦争さなかの1942(昭和17)年1月に設立された。戦争遂行のため、科学技術に関する国家の総力を集中させ、特に航空機関連技術の飛躍的向上を図ることを目的としていた。井上は日記や書簡、会議録などを大量に残した「メモ魔」。これらの「井上匡四郎文書」は戦時中の科学技術行政に関する貴重な資料とされている。
「井上匡四郎文書」をはじめとする複数の資料などから判明した名航研の実態は―。
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