4月11日まで米ジョージア州オーガスタで開催された男子ゴルフのメジャー大会、マスターズ・トーナメントで松山英樹選手(29)が優勝し、日本の男子選手で初めて海外メジャー大会制覇を遂げた。
勝者に授与されるグリーンジャケットを着た松山は万歳をしながら飛びはねて喜びを爆発させ、「(日本男子で)初めてのメジャーチャンピオンになって、日本人はできないんじゃないか、というのを覆すことができたと思う」と晴れやかに語るとともに、「(日本で)多くの子どもたちが見ていたと思う。僕もまだまだ頑張ると思うんで、メジャーを目指して頑張ってもらいたいなと思う。そこでトップを争うことができたらうれしい」と将来を担う選手たちへの思いも口にした。
日本のゴルフ界にとって、最初のメジャー大会参戦から89年で達成した悲願。ついに厚い壁を破った松山の偉業に、ゴルフ関係者やファンの間には大きな感動が広がった。(時事通信社 橋本誠)
遥かなるオーガスタ
マスターズ・トーナメントというのは、ゴルフをやったことがある人間、ゴルフ観戦に興味がある人間にとって、憧れの大会だ。
2008年、青木功、丸山茂樹に次いで日本人3人目の米男子ツアー勝利を挙げた今田竜二が実感を込めて漏らした言葉が強く印象に残っている。
念願の初勝利への喜びを語るとともに、「これで(出場資格が生じて、翌年の)マスターズに出場できる」と声を弾ませたのだ。米国で下部ツアーからはい上がり、念願のレギュラーツアー勝利をつかみ取った。しかし、その1勝の喜び自体より、その勝利がもたらす「マスターズ出場」という大きな付録が、今田選手の興奮をより高めているようにさえ感じられた。
14歳で米国に留学し、マスターズの会場地オーガスタと同じジョージア州のジョージア大学に進学した今田選手にとって、マスターズは近くて遠い場所。曲折を経てそこにたどり着いた達成感は、人一倍大きいものだったに違いない。
ただ、住んでいる場所が近かろうが遠かろうが、「マスターズ」という言葉の響きは、ゴルフファンの心を高鳴らせる。ツツジなどの花が咲き乱れ、グリーンやフェアウエーの緑、バンカーを形作る白い砂、クリークや池の水色が美しいコントラストを描き出す。かつて果樹園があった場所に、「球聖」と呼ばれた名ゴルファー、ボビー・ジョーンズが創設したオーガスタナショナルGCのコースは、庭園のように美しい。
厳格なプライベートコースだけに、一般の人がプレーするのはかなり難しい。女性会員がいないとして激しく批判されたこともたびたび。1996年夏季五輪、2002年冬季五輪の招致に際しては、ジョージア州アトランタ、ユタ州ソルトレークシティーの両招致委員会が投票権を持つ一部の国際オリンピック委員会(IOC)委員をオーガスタに招いたとされる。貴族出身者なども多いIOC役員にとってもオーガスタは憧れのコースで、目尻を下げて接待ゴルフに興じたのである。
1989年に発売され、大ヒットしたゴルフゲーム「遥かなるオーガスタ」を楽しんだことのある諸兄も少なくないはずだ。オーガスタナショナルGCのコースをかなり忠実に再現したゲームで、ラウンドを疑似体験しているような感覚で楽しめる。マスターズ・トーナメントは日本では1976年からTBS系列が一貫して放送。コースの風景や特徴をゴルフファンの多くが知っている。その憧れの気持ちが、ゲームの大きなヒット要因ともなった。
日本勢はね返した高い壁
「憧れの女性」が難攻不落なのと同様、憧れのコースも一筋縄ではいかない。ウブな初心者や一見(いちげん)さんは、簡単に近づけてくれない。日本勢は1936年の第3回大会に戸田藤一郎と、当時植民地だった台湾の陳清水が初出場し、陳が20位、戸田が29位。1980年の全米オープンでジャック・ニクラウス(米国)と当時の「日本男子ゴルフの頂点」と言える死闘を演じて2位に入った青木功は85年の16位が最高。尾崎将司も19度挑んで73年の8位を超えられず、中嶋常幸も86年の8位が最高だった。
日本のゴルフブームをけん引した青木、尾崎、中嶋の「AON」に続いて挑戦を重ねたのが倉本昌弘、尾崎直道、丸山茂樹、伊沢利光、片山晋呉らだ。伊沢が2001年、片山が09年に4位に。美しいスイングの飛ばし屋で知られた伊沢の3イーグルには、現地で取材をしていて興奮したが、時はタイガー・ウッズ(米国)の全盛期。ウッズとは6打差で、「優勝争い」の実感は乏しかった。
AONが180センチ超の体格を誇ったのに対し、その後日本男子の海外挑戦の主力となった尾崎直、丸山、田中秀道、伊沢、片山、今田、その後の石川遼らは170センチ前後と一般人と変わらない体格。体力面で優れた外国勢に比べて強く振ったり、長いクラブを使ったりする状況が多く、精度面で苦しくなる。また、小柄な選手が強いスイングを繰り返せば故障のリスクは増し、マスターズ向きとみられた伊沢あたりも故障で失速を強いられてしまった。
そこに出現したのが松山だった。10年のアジア・アマチュア選手権に優勝し、日本のアマチュアとして初めてマスターズへの出場資格を得た松山英樹は、出場した11年当時東北福祉大2年の19歳。大健闘を演じ、通算1アンダーで27位となって大会のベストアマに輝き、優勝したシャール・シュワーツェル(南アフリカ)らとともに表彰式に出席した。
翌12年もアマチュアで出場し、最終日に80と崩れて54位。2年間の戦いを通じて海外の強豪との体力差を痛感し、より厳しく体力づくりに取り組むようになったという。「マスターズというのは、そこに出たことで自分を変えることができた場所」。アマ時代に挑んだマスターズの経験が、松山の負けん気、課題に取り組む意欲に火をつける原点となった。
181センチ、90キロ。申し訳ないが、石川らとは「排気量」の違うボディーだ。AON同様に体格面のハンディはなく、13年からの米ツアー本格参戦で数多くの経験を積んだ。日本男子が果たしていない海外メジャー制覇を松山に期待するのは当然のことだった。
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