1960年代後半、ベトナム戦争に反対する活動中に死亡した大学生について周囲の人々が語る「きみが死んだあとで」(代島治彦監督)と、1970年代半ばに三菱重工業などの大企業を狙った連続爆破事件を引き起こした青年たちのその後を追った「狼をさがして」(キム・ミレ監督)という二つのドキュメンタリー映画が相次いで公開されている。およそ半世紀前、学生運動華やかなりし頃の記録を今、改めて見る意味はあるのか。
「きみが死んだあとで」の主人公は山崎博昭。京大生だった18歳の青年は、1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を阻止するための「第1次羽田闘争」に参加。しかし、東京・羽田空港に向かう道にある橋の上で死亡した。空港への侵入を阻止しようとする機動隊との衝突の中で起きた出来事だが、その死の原因は今も明確にはなっていない。
成田国際空港の建設反対運動を扱った「三里塚に生きる」などを製作してきた代島監督が、山崎の死を取り上げたのは、「あらゆるメディアがあの当時を振り返る時、連合赤軍によるあさま山荘事件だけに焦点を当てる」ことに危機感を持っていたからだ。「『学生運動は結局、連赤につながる』というマイナスイメージが、今の市民運動の衰退につながっている」
代島監督は山崎の死が「学生運動が盛り上がる出発点となり、そして過激化していくきっかけにもなった」と見る。「橋上の攻防でそれまで機動隊にやられっぱなしだったのに初めて押し返した。初めて勝ったんだと鼓舞された。そして山崎の死に負い目を感じ、社会の不正義を正すために自分も戦いに命を懸けなければと思ってしまった」という分析だ。その過激化によって結果的に多くの人が運動から離れていったのも山崎の死の影響とも言える。
高校の同級生で詩人の佐々木幹郎をはじめ、山崎という人物を語る口調はいずれもどこか楽しげだ。「やはり50年たったからだろう。現役時代には過去の敗北を認めることは難しかったが、60代を過ぎると自分の生きて来た軌跡を思い返して正直になれるから」なのだろうか。
ただ、その一言一言には重い「責任」があるとも。「全共闘世代には次世代に渡すべきバトンを過激化や内ゲバで血塗られたものにしてしまった『原罪』がある。その結果、若者が政治に拒否反応を持つようになってしまった。そのバトンをもう一度きれいにして渡す義務があると思う」
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