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東日本大震災時の成田、「開港以来」が続発 管制塔が一時無人に、72便が他空港へ

「われわれも避難するぞ」

 10年前の3月11日、東北地方の太平洋側を中心に広い範囲で大きな揺れを観測した東日本大震災。「日本の玄関口」成田空港も震度5強の揺れに襲われた。管制官らの避難により1978年の開港以来初めて管制塔が無人になり、成田に向かっていた72便が、米軍横田基地を含む他の飛行場に代替着陸した。その一部は燃料不足による緊急着陸。空港運用が落ち着くと、今度は東京電力福島第1原発事故の影響で、多くの外国人が同空港から出国した。海外からの救助隊や支援物資の受け入れ窓口にもなったが、外国機が成田を避け、近隣国の空港に夜間駐機場所を移す動きもあった。「開港以来」の状況を、当時の担当者や幹部に聞いた。(時事通信編集委員・石井靖子)

※敬称は肩書呼称を除き省略しました。肩書は当時。

◇   ◇   ◇

 「われわれも避難するぞ」。成田国際空港会社(NAA)「ランプコントロール・タワー」16階(地上約60メートル)の中央運用室に詰めていた運用管理部員の関口一隆は、上司の言葉に自分の耳を疑った。夜間離着陸制限時間(当時は午後11時~午前6時)はあるものの、成田は24時間空港。国土交通省の管制官とNAAの運用管理部員が夜間も常時待機し、機体の不具合などで緊急着陸する航空機はいつでも受け入れる。管制塔同様、開港以来、中央運用室が無人になったことはなかった。「避難するという発想自体がなかった」と関口は当時を振り返る。

 成田は、管制官とは別に、空港会社社員が航空機の出発・到着に関わる日本で唯一の空港だ。離着陸機や誘導路上の航空機に指示を出すのは管制官の専管事項だが、駐機スポットから誘導路までのエプロン地区(ランプ)にいる航空機はNAA運用管理部員が取り扱う。

当日再開は出発のみ
 地震の影響でエレベーターは停止していたが、タワーに隣接する事務棟の3階にいた部長の渡辺章喜が、階段を上って中央運用室まで来ていた。本震から約30分後の午後3時10分すぎ、2回目の大きな揺れがタワーを襲った。関口には本震より大きな揺れのように感じられた。一方で、隣接する管制塔からは、管制官が避難したとの情報が入っていた。渡辺の指示で、当時室内にいた7人ほどが避難を開始した。

 誘導路やエプロン上には、安全確認のため停止中の航空機が4、5機残っていた。関口は、これらの航空機のことが気掛かりでならなかった。航空機が呼び掛けてきた時は応答できるよう、無線機などの備品を持って避難した。

 A、B両滑走路に異常がないことは間もなく確認された。事務棟前の駐車場には、管制官、NAA運用管理部員をはじめ管制塔周辺に勤務する50人ほどが、建物から避難して集まっていた。その場にいた国土交通省成田空港事務所とNAA運用管理部の幹部が相談し、関口らは午後4時10分すぎ、階段を上って中央運用室に戻った。

 室内には書類などが散乱しており、関口らは、エプロン地区にいる航空機の状態を確認するとともに、まずは室内を片付ける必要があった。避難中は「早く運用室に戻らなければ」という使命感が強かったが、一方で、「再び大きな地震が発生しないだろうか」という不安もあった。実際、余震も続いていた。

 午後4時半ごろまでには、成田空港は航空機の離着陸に最低限必要な機能は発揮できる状態になっていた。しかし、他の施設の点検に時間がかかったことなどから空港閉鎖は続き、ようやく午後7時すぎ、出発便に限って運用が再開された。出発機を処理するため、夜間離陸時間は延長されたが、この日の欠航は176便に上った。

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