自己記録には4秒届かなかった。それでも、圧巻の強さと確かな成長を証明した。3月14日の名古屋ウィメンズマラソン(名古屋市のバンテリンドームナゴヤ発着)で、松田瑞生(ダイハツ)が2時間21分51秒の好タイムで初優勝を果たした。つかみかけた東京五輪代表の座を逃し、涙の記者会見から1年。競技を続けることに迷いが生じるほどの失意からはい上がる原動力となったのは、周囲の支えと鳴りやまないメッセージだった。(時事通信運動部 青木貴紀)
◇ ◇ ◇
2020年1月。松田は大阪国際女子マラソンを日本歴代6位(当時)の2時間21分47秒で制し、残り1枠の五輪代表に大きく前進した。しかし、3月の名古屋ウィメンズで一山麻緒(ワコール)が歴代4位の2時間20分29秒で優勝。最後の切符は一山が手にし、松田は補欠となった。「ごめん、(五輪に)行けんかった」。コーチ時代からともに歩む山中美和子監督のスマートフォンに、松田からLINEが届いた。山中監督は電話で「謝ることじゃないじゃん」と言葉をかけて慰めた。
夢破れてから、わずか4日後。福島県郡山市で行われたマラソン代表記者会見に同席し、一山の隣に座った。今後の目標を問われると、必死にこらえていた大粒の涙がこぼれ落ちた。「まだ気持ちの整理がついていないので…」。会見を終えて陰で泣いていると、山中監督が歩み寄り、一緒に涙を流して悲しみを受け止めてくれた。
失意のどん底で、松田はスタートラインに立つことが怖くなった。「競技を続けなければよかった」「あの時やめていればよかった」。毎日、後ろ向きな思いばかりがこみ上げる。再び前を向く力を与えてくれたのは、底抜けに明るい家族、いつも同じ目線で寄り添ってくれる監督、そしてSNSで「鳴りやまないほど」届いたファンの温かい声だ。こんなにも多くの人が応援してくれているんだと気付き、心が救われた。
芽生えた恩返しの気持ち
松田は再び走り始めた。夏場は調子が戻らず、苦しみながらもひたむきに汗を流す日々。20年9月の全日本実業団対抗選手権女子1万メートル。五輪ラスト切符を争った一山を終盤に振り切り、鍋島莉奈(日本郵政グループ)に次ぐ2位に入って充実した表情を浮かべた。レース後、真っ暗になった競技場。一人でクーリングダウンを終え、みるみる涙がこみ上げた。「ほっとしたわぁ」。苦悩の日々が頭の中を駆け巡り、復活への手応えと勝負の世界に帰ってきた安堵(あんど)感が胸いっぱいに広がった。
新たな気持ちも芽生えた。「たくさんの方々の応援や励ましがあって今の私がいる。私が走る姿を見せることでエネルギーを与えられるのなら、すごくうれしい。たくさんの人に元気を与えたい」。強い恩返しの気持ちを胸に、1年2カ月ぶりのマラソンとなる名古屋ウィメンズのスタートラインに立った。
強風はねのけ、22キロから独走
もう怖くない。「やることはやった。どんな結果になっても後悔はない。楽しもう」。レースは常に強風が吹き荒れ、突風に選手があおられるほど過酷な環境で、レース中の大半が向かい風だったという。松田は「早春の嵐」に負けじと序盤は2時間19分台も狙える高速ペースで飛ばし、22キロすぎから独走した。
30キロ地点で余力はほとんどなかったというが、「ここで頑張らないと新たな自分を見つけられない」と奮起。20年の大阪国際と比べて、35~40キロは26秒速い16分59秒。ラスト2.195キロも14秒速い7分23秒のラップタイムを刻んだ。練習の走行距離は1月に1100キロ、2月には1400キロを超えた。00年シドニー五輪金メダルの高橋尚子や、続く04年アテネ五輪を制した野口みずきが踏んでいた距離に匹敵する。山中監督から与えられた練習以外にも自主的に黙々と走り込み、驚異の練習量が後半の粘りを生んだ。
新着
会員限定