2020年8月。東洋大4年生の同学年コンビ、競歩の池田向希と川野将虎は、本来であれば日本代表として東京五輪のレースに臨んでいたはずの日時に、魂を込めて歩を進めていた。新型コロナウイルスの影響で五輪は1年延期され、東洋大の現役学生としての五輪出場は幻となった。代わりに実施した「仮想五輪」。大学のチームカラーとなっている「鉄紺」の誇りを示し、仕切り直しとなる今夏の大舞台への決意を新たにした。(時事通信運動部 青木貴紀)
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「仮想五輪」は大学の事情により、本番会場の札幌を視察していた他の代表選手と合流できない代わりに、福島県猪苗代町で実施。同町の協力の下、五輪同様に20キロ代表の池田は片道500メートル、50キロ代表で日本記録保持者の川野は片道1キロで人通りのない直線道路を往復した。まず池田が20年8月6日午後4時半にスタート。気温は30度を超えていたが、五輪代表の覚悟と熱意を胸に20キロを歩き通した。
池田 東洋大生として五輪に出たかった思いが強くて、コーチや監督が、このような機会をつくってくださった。自分一人ではつかみ取れなかった五輪。コロナ禍で練習できることが当たり前ではなくなり、一人では成り立たない練習があることをかみしめながら歩きました。
川野も同じ気持ちだった。翌7日午前5時半に40キロを開始。やはり気温は途中から30度を超えた。水分を補給しながらも、後半の20キロだけで体重は約2.5キロ減る過酷な環境だったという。それでも、最後の1キロは4分余りにペースアップ。箱根駅伝でも知られている「その1秒を削り出せ」というチームスローガンを体現するスパートを見せた。
川野 本当なら4年生のタイミングで東京五輪が開催されていた。本番のような気持ちで臨み、ここで一度、感謝の気持ちをぶつける歩きができればと思いました。
入学早々、誓い合った約束
酒井俊幸監督の夫人で18年春に競歩コーチに就任した瑞穂さんは、2人の気迫あふれる姿を見て胸が熱くなったという。「すごく心のこもった表情と歩きをしていた。本来なら東洋大生として東京五輪を迎えたかったと思う。その気持ちが表れていて、とても印象に残りました」。元競歩選手の瑞穂コーチは、2人の確かな成長を感じ取った。
池田と川野はともに静岡県出身。川野は御殿場南高2年時に全国高校総体と国体で2位に入り、先に頭角を現した。浜松日体高で川野の背中を追っていた池田は、「強くなりたい」との一心で東洋大に進学。大学2年だった18年5月に世界チーム選手権20キロで優勝するまではマネジャー業も兼務。朝4時15分に起床して朝練習の準備をするなど裏方の仕事をこなしながら、練習では川野と切磋琢磨(せっさたくま)してめきめきと力を付けた。
東洋大は12年ロンドン五輪に西塔拓己、16年リオデジャネイロ五輪に松永大介(現富士通)が現役学生として男子20キロ競歩に出場した強豪校。良きライバルであり、良き友人でもある池田と川野は入学してすぐに「4年生で東京五輪があるのは何かの巡り合わせ。一緒に出場して活躍しよう」と、五輪3大会連続となる東洋大の現役学生による競歩出場を誓い合った。
川野は19年10月の全日本高畠大会(50キロ)、池田は20年3月の全日本能美大会(20キロ)をそれぞれ制し、念願の五輪切符をつかんだ。ところが、コロナの猛威によって目指してきた夢舞台は21年夏に延期が決定。東洋大生としての出場はかなわなくなった。瑞穂コーチは、心を揺さぶられる2人に「下を向くことではない。コロナ禍を成長の時期にして、世界で戦える力を付けていこう」と励ましの言葉を掛けた。
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