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秋空に描いた五輪 【リメンバー1964】

元ブルーインパルス隊員「生涯最高のフライト」

 東京の抜けるような青空に5機の戦闘機が五輪マークを描いた。1964年10月10日、東京五輪の開会式。「最高の気分だった」。航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」は戦後日本の復興を世界に印象付けた。日本時間8日の開催地決定を前に、元パイロットは2度目の東京五輪に期待を寄せる。

 ブルーインパルスは60年に空自浜松基地で正式発足。東京五輪の約1年半前、企画が持ち込まれた。式典は世界にテレビ中継される。失敗は許されなかった。

 当時の1番機は松下治英さん(82)、2番機淡野徹さん(76)、3番機西村克重さん(77)、4番機船橋契夫さん(故人)、5番機藤縄忠さん(76)。それぞれ青、黄、黒、緑、赤の輪を担当した。

 前日は大雨。式は中止になると思い込み深酒をしたが、目が覚めると雲一つない青空だった。松下さんが慌てて仲間を起こし、駐機先に向かった。試行錯誤して練習を繰り返したが、一度も成功していなかった。

 5色の煙を吐き出す時刻は、会場の国立競技場に聖火が点火されハトが飛び立った後の午後3時10分20秒。神奈川・江の島上空で旋回して待機したが、予定はずれ込んだ。松下さんは機転を利かせてラジオ中継を聞き、進入のタイミングを探った。前日の雨で空気中のちりは洗い流され、遠く競技場のグラウンドが見えていた。

 競技場まで約5分。「イチかバチか。うまくいくか分からなかった」。目と勘だけを頼りに隊形を整える。仲間を信じ一気に右旋回した。スタッフから無線が入る。「パーフェクトだ」。急いで上空に上がると、五つのきれいな輪が目に飛び込んだ。「やった、やった」。マスクの中で叫んでいた。

 「あんなにきれいな空はなかった。生涯で最高のフライトだった」。松下さんは開会式が空自で最後の任務に。船橋さんを除く4人は、日本航空に再就職してジャンボ機の機長に転身、定年まで勤めた。

 4人は今、「あの時、失敗しなくて良かった」と苦笑する。淡野さんは「今度も世界を驚かす開会式にしてほしい」と東京選出に期待を込め、西村さんは「次は下から五輪の輪を見てみたい」と語る。藤縄さんは「後輩たちならできる。若い人に頑張ってほしい」と力強く語った。(了)(2013.9.6)

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