今から92年前。1928年8月2日は、日本のスポーツ界にとって歴史的な一日となった。アムステルダム五輪の陸上男子三段跳びを織田幹雄が制し、これが日本の金メダル1号に。メインポールには特大の日の丸が掲揚された。小柄な日本選手のメダル獲得は想定外だったのか、日本の国旗が用意されていなかったという。その代替措置に一役買ったのは織田と並ぶ伝説の名選手、南部忠平と人見絹枝だ。織田は23歳、同学年の南部は24歳、人見は21歳だった。
同じスタジアムで、日本人初の金メダリストを目に焼き付けた人物がいた。米国選手団のダグラス・マッカーサー団長。後年、太平洋戦争後に敗戦国の日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官となる。運命の糸は戦後、日本が国際スポーツの表舞台に戻っていく道筋にもつながった。
織田は晩年、生涯スポーツとしての陸上の普及活動に尽力。80年には日本マスターズ陸上競技連合の初代会長に就任した。次男で現在は同連合名誉副会長、東京都テニス協会顧問を務める和雄さん(84)の協力を得て、偉大なアスリートの足跡をたどった。(時事通信社 小松泰樹)
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戦後の1949年7月ごろとみられる写真がある。中央のソファに座っているのが、家族に囲まれた織田幹雄。隣には32年ロサンゼルス五輪の競泳男子100メートル背泳ぎで金メダルを獲得した清川正二がいる。清川は後に国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、副会長を務めた。織田と清川が渡米する直前のひとこまのようだ。
当時はマッカーサー元帥が率いるGHQの占領下。海外への渡航は制限されていたが、織田の真後ろに写っている和雄さんが状況を説明してくれた。「日本を元気づけるために米国を見てくればいい、という(マッカーサーの)計らいだったようですね」
渡米の主目的は、米国のスポーツ事情を視察したり交流を深めたりして、スポーツを通じた日本復興を目指すこと。清川は、米国水泳連盟から8月の全米選手権に招かれていた日本チームのリーダーを兼ねていた。この大会で古橋広之進や橋爪四郎が世界新記録を連発。「フジヤマのトビウオ」と称され、戦後の日本に勇気を与えたことはよく知られている。
ロサンゼルス五輪で、清川ら競泳の日本勢は5種目を制覇。「水泳ニッポン」の力を誇示した。戦後初の48年ロンドン五輪に敗戦国の日本は招待されなかった。ならばと、日本水泳連盟は同五輪の日程に合わせて東京で選手権大会を開催。古橋らが五輪の優勝タイムよりもはるかに速い「世界記録」で泳いだことが、翌49年の全米選手権参加を導いた。
ドラマチックなタイミング
織田の米国視察をめぐっては、大きなきっかけがあった。10代の学生だった皇太子時代の上皇さまとマッカーサーの会見だ。家庭教師のエリザベス・グレイ・バイニング夫人を伴って実現した。話題はスポーツにも及び、マッカーサーがアムステルダム五輪を回想した。
「オダ・ミキオは今、どうしているのだろうか」。問いかけるともなく話すと、若き皇太子が応じた。「(織田の)息子が同級生です」。長男の正雄さんが学習院で同学年、和雄さんは同じく2学年下。ドラマチックとも言えるタイミングだった。
マッカーサーは部下を通じ、織田に渡米を勧めた。スポーツに造詣が深い最高司令官だけに、約20年前のシーンは鮮明によみがえる。その記憶が糸口となった。
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