ボクシングの元世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンさん(71)=米国=が、このほど時事通信社のインタビューに応じた。一度ボクシングを引退した28歳の時からキリスト教を伝道し、現在は米テキサス州ヒューストン郊外の小さな教会で牧師を務めている。礼拝では自ら講壇に立ち、現役時代のエピソードも交えながら説教を行う。
そのためか、記憶は鮮明。1974年にコンゴ(旧ザイール)の首都キンシャサでモハメド・アリ(米国)に屈辱の敗戦を喫した歴史的一戦や、現役復帰への葛藤、45歳で世界王座に返り咲いた94年のマイケル・モーラー(米国)戦について、真実をつぶさに語った。(時事通信社ロサンゼルス特派員・安岡朋彦)
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1968年メキシコ五輪で金メダルを獲得したフォアマンはプロに転向し、無敗のまま73年にジョー・フレージャー(米国)を粉砕して世界ボクシング協会(WBA)、世界ボクシング評議会(WBC)ヘビー級統一王座に就いた。まさに無敵。そんな王者の前に、ベトナム戦争の兵役拒否によるライセンスの剝奪を経て復帰していたアリが立ちふさがった。
2人は74年10月、キンシャサで顔を合わせた。プロモーターは、アフリカ系米国人同士が互いのルーツであるアフリカで拳を交える一戦を、「ジャングルの決闘(ランブル・イン・ザ・ジャングル)」と銘打った。ボクシング史の中で最も有名な試合とも言えるこの戦いについて問うと、それまでの穏やかな口調が変わった。少しばかり語気を強めて、「今でも私と話す人はいつも『ロープ・ア・ドープは…』とか、『ジャングルの決闘は…』と聞いてくる。アリは私を倒し、タイトルを奪った。あれは私にとっては最高の戦いではないのに、ほとんどの人がこの話をするんだ」。
ブランクを余儀なくされたアリは、32歳になっていた。25歳と若く、40戦全勝(37KO)の戦績を誇る王者が圧倒的優位とみられた。会場となったスタジアムはアリへの応援一色。それでも自分の敗戦を予想する者は、「いなかった」と言い切る。
この時期のフォアマンは「象をも倒す」と形容された桁違いのパワーを誇り、相手を早々にKOする試合が多かった。直近の2試合は、73年9月に日本武道館で行われた統一王座の初防衛戦でホセ・ローマン(プエルトリコ)を1回KO、続く74年3月の一戦ではケン・ノートン(米国)を2回TKOで圧倒していた。
アリ戦の狙いも当然、序盤でのKO。力強いパンチを次々と繰り出すフォアマンに、王座返り咲きを狙うアリは途中から、意図的にロープを背負って相手にパンチを打たせる捨て身の戦法「ロープ・ア・ドープ」で対抗した。
フォアマンが一方的に攻める展開の中、アリはロープに体を預け、ガードを固めた。時折反撃を見せたが、フォアマンの首を左腕で巻き込むようにしてクリンチし、攻撃を断ち切る場面が目立った。
王者は幾多の強烈なパンチを浴びせたが、アリは倒れなかった。
「アリは体を密着させてくる作戦だった。かなりダメージを与えたけど、体を寄せてきて(決定打は与えられず)まるで『それは食らうものか』と言われているようだった。打ち合いに持ち込みたかったのだが、相手は乗ってこなかった。これがKOできなかった理由だ」
時間を追うごとに、スタミナをそがれていった。そして8回。コーナーポストに追い詰めたところから反撃に遭い、顎を打ち抜かれてマットに沈んだ。まさかのKO負け。アリの偉業をたたえて「キンシャサの奇跡」と語り継がれているこの試合の、まさに引き立て役になってしまった。
思いも寄らない結末に、試合直後から「アリの作戦を成功させるためにロープが意図的に緩められていた」、「フォアマンの飲料水に薬が混ぜられていた」など、数々のうわさが立った。これについては、95年に出版された自伝でも触れられている。
71歳になった今、このことを尋ねると、質問を途中で遮るように「負ければさまざまな言い訳が思い浮かぶもの。ロープは何もしていない」と一切を否定。そして「私は試合に負けた。リングの中で、彼の方が頭脳的だった」と簡潔な敗因を口にした。
一方で、半世紀ほども前の一戦を振り返り、自身の戦いぶりについて「不思議に思うことがある」のだと言う。
アリはノートン、フレージャーと戦う前にもソニー・リストン(米国)ら難敵と拳を交えてきた。そして、フォアマンとの対戦を迎えた時点でKO負けは一度もなかった。
「リストンもフレージャーも、アリと戦った選手は誰一人として彼をKOできなかったんだ。それなのに一体全体どういう訳か、私はアリをKOで倒すつもりだった。彼の(倒されないという)経験値を見落としていた。見落としてしまっていたんだ」
負け知らずの若き王者は、この落とし穴に気付かなかった。
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