プロ野球の近鉄バファローズなどで監督を務めた西本幸雄さんの生誕から、4月25日で100年を迎えた。監督として大毎オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄を率いた西本さん。計8度のリーグ優勝、日本シリーズ進出を果たしながら一度も日本一をつかめなかったことから「悲運の闘将」「悲運の名将」との異名を取った。キャリアを締めくくったのは、50~60歳代だった近鉄での8シーズン。時事通信の取材に応じた近鉄OBの教え子たちが、2011年に91歳で死去した西本さんの在りし日を振り返ってくれた。そこには、近鉄戦士に注いだ熱い情熱が浮かび上がる。厳しさと温かさを併せ持つ名監督だった。(時事通信ロサンゼルス特派員 安岡朋彦)
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西本さんは和歌山県出身。旧制和歌山中(現桐蔭高)時代は、夏の甲子園準決勝、決勝と2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した伝説の剛腕、海草中(現向陽高)の嶋清一投手とも対戦した。西本さんは立大に進学。同じ東京六大学リーグの明大に進んだ嶋投手は数年後、出征して命を落とした。
立大を卒業した西本さんは、社会人野球の八幡製鉄、別府星野組などでプレー。プロ野球の2リーグ制がスタートした1950年、パ・リーグの毎日オリオンズ創設メンバーの一員としてプロ入りした。
弱小球団の阪急を強化
一塁手として6年間の現役を経た後、60年に大毎(毎日オリオンズと大映ユニオンズが合併)の監督に就任。1年目でリーグ優勝に導いた。しかし、「ミサイル打線」を擁したチームは日本シリーズで、三原脩監督率いる大洋に1勝もできず、全て1点差で4連敗。その采配をめぐり永田雅一オーナーと対立したことで退任した。
63年から、当初は弱小球団だった阪急の監督を務めた。ここで手腕を発揮し、長池徳士、加藤秀司、福本豊、山田久志らを育成。チームは初優勝を含む5度のリーグ制覇を果たす。だが日本シリーズでは、川上哲治監督の下で長嶋茂雄と王貞治が軸になった「V9時代」の巨人に屈した。
「チームが変わる」
阪急の監督を73年限りで退任すると、翌年から同じパ・リーグでしのぎを削った近鉄へと移った。当時、退任の翌年に同一リーグ他球団の監督を務めることは異例だった。近鉄は50年の球団創設1年目から一度も優勝がない弱小球団。「灰色の球団」とやゆされた阪急の戦力を整え、強豪へと育て上げた監督とあって、選手らは驚きとともに期待を抱いた。
主力投手の一人だった太田幸司さんは、プロ4年目のシーズンを終えた当時の心境をこう振り返った。「この監督が来たら強くなるな。チームが変わるだろうな」
その予感が数年後、現実となった。西本監督就任6年目の79年に初のリーグ優勝、翌80年には連覇を果たした。
グラウンド外では笑顔
プロ野球ファンのうち西本さんの監督時代をあまり知らない世代にとっては、フジテレビ系列の「プロ野球ニュース」で見られた穏やかな口調の優しそうな解説者というイメージが強いかもしれない。西本監督から特に厳しい指導を受けた選手として名前が挙がる羽田耕一さんですらも「試合が終わって、球場を出てしまえば普通のおじいちゃんだった」。グラウンド外では笑顔で冗談を言うこともあったという。
教え子たちは「(選手の)私生活に関しては何も言わなかった」と口をそろえる。羽田さんら、当時20歳くらいの若手も球場の外では「大人扱い」していたという。ただし、ひとたびグラウンドに入れば「闘将」だ。
一人ひとりに平手打ち
就任1年目の、まだキャンプも始まっていない1月。当時はチームで実施していた合同自主トレーニングの場を訪れた西本監督の行動に、選手たちは度肝を抜かれた。
複数のグループに分かれてグラウンドを周回するランニングメニュー。先頭のグループは若手投手が多く、それに続く第2グループが後れをとっていた。「2番手の組、前につけ」。新監督が指示しても、差は縮まらない。すると練習を中断させ、第2グループのメンバーを集め、一人ひとりに平手打ちを食らわせた。その中にいた身長190センチ超の仲根正広投手(後に政裕、故人)には、ジャンプして、飛び掛かるような状態で顔をはたいたいう。
「ぬるま湯」から一変
鉄拳制裁も指導のうち、とされていた昭和の時代。第3グループを走っていて平手打ちを免れた羽田さんは、「それまでは、しゃべりながら走ったり、だらだらしたりと、そういうのがあった。あれで、みんなの西本さんを見る目が変わった。野球に集中しろということだと捉えた」。その光景は、今でも鮮明に覚えているという。
その場にいた太田さんも、チームの雰囲気が一変したと回想する。「それまで怒る人もいないし、ぬるま湯で、だらだらとしていた。空気がガラッと変わった」
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