明治神宮野球場(神宮球場)のスコアボードにはオリンピック旗がはためき、レフトスタンド後方には赤々と燃える国立競技場の聖火が見えていた。1964年東京五輪の開会式翌日、10月11日に野球がデモンストレーション(公開)競技として行われた。学生選抜と社会人選抜が、全米選抜とそれぞれ1試合ずつ対戦。大会組織委員会が2年後の66年7月20日に発行した約1400ページの第十八回オリンピック競技大会公式報告書に、野球に関する記述はほとんどない。
入場券は等級別に1000円、500円、300円、200円、100円の5種類。計4万8995枚が用意され、3万5275枚が売れて当日の入場者数は2万9917人との記録がある。大会参加全選手名簿の項目に野球の出場選手は記載がなく、試合の結果も記されていない。
当時の新聞各紙によると、学生選抜は2―2で引き分け、社会人選抜は0―3で敗れた。毎日はボックススコアも掲載し、読売は「観衆五万」と伝えた。しかし、いわゆる雑報扱い。学生選抜の一員としてプレーした駒大のエース左腕、盛田昌彦さん(76)は「日の丸を付けたから、みんな必死になった」と当時を振り返る。56年前の記憶を盛田さんにたどってもらった。(時事通信運動部 和田隆文)
「J」と「KOMAZAWA」
駒澤大学に当時の貴重な写真が残っていた。学生選抜の帽子には「J」、ユニホームの胸には「KOMAZAWA」の文字が見える。「オリンピックの野球で全日本という意識はなく、組織的なものもなかった。だから駒澤さんでやってくれ、と」。学生選抜は6月の全日本大学選手権を制した駒大の小林昭仁監督が編成を担い、駒大が10人を占めた。東京六大学から5人、東都大学の他チームから2人を補強。ユニホームは各選手に合わせて採寸して新調し、袖に日の丸を入れたが胸の文字は「JAPAN」ではなかった。社会人選抜も編成の中心になった日本通運のユニホームだった。
盛田さんは当初、五輪公開競技への思いはさほどなかった。当時は駒大の3年生。1、2年のときにチームが全日本大学選手権決勝で法大、慶大と六大学勢に敗れ、3年生エースとして雪辱を期していた。決勝で六大学の早大を2―0で破り、目標は遂げていた。「優勝した後、五輪(公開競技)の試合に出られるということでみんなが盛り上がった。そんな感じだった」と述懐する。
駒大のエースとして順当にメンバー入りし、本番の2週間くらい前から神宮球場で練習があった。盛田さんは社会人の北海道拓殖銀行でプレーしたが、のちにプロ入りした選手もいた。同じ駒大の大下剛史(東映―日拓―日本ハム、広島)と新宅洋志(中日)に加え、慶大の広野功(中日、西鉄、巨人)、法大の長池徳士(阪急)、立大の土井正三(巨人)、中大の武上四郎(サンケイ―アトムズ―ヤクルト)と末次利光(巨人)ら。そうそうたる顔触れに「高揚感はあった」という。
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