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五輪柔道の金メダル1号、「前座」でも重かった

心ないひと言、忘れない

 柔道が初めて実施された1964年東京五輪で、発祥国の日本は敗れた。多くの記憶にはそう刻まれている。無差別級決勝で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に屈した。五輪競技に加わることと引き換えに体重別を含む4階級で争われたが、体重無差別こそが本来の柔道。そういう時代だった。初日の10月20日に軽量級(68キロ以下)を制し、柔道の本家ニッポンに五輪金メダル1号をもたらした中谷雄英(なかたに・たけひで)さん(78)は「軽量級なんて前座みたいなものだった」と述懐する。

 中谷さんは優勝した後、明大の先輩の一人にこう言われたのを今でも忘れていない。「柔道は無差別だ。軽量級なんて何でもないよ」。そうかもしれないとは思ったが、それでも背負っていたものは計り知れないほど重かった。五輪柔道の歴史における本家ニッポンの、いの一番手。「負けたら国賊扱い」。そう考えると眠れない夜もあった。代表入りした経緯を思えば、準決勝で対したソ連の難敵オレグ・ステパノフには特に負けられなかった。

逃げて勝ったと書かれても

 五輪の3年前、代表候補に選ばれて合宿に初めて参加した。軽量級は10人。「僕はかろうじて10番目に入ったくらいの選手だった」と振り返る。先頭を走っていたのは岩田兵衛。徐々に力を付けて五輪前年のプレ大会で岩田を破って引導を渡し、プレ大会を制した重岡孝文、松田博文との三つどもえの争いになった。五輪代表入りの決め手は「対ソ連」だった。

 五輪の前年にソ連の格闘技であるサンボのチームが日本に遠征してきた際、軽量級の日本勢はやられた。重岡は負けはしなかったが内容で圧倒され、他の選手も苦しんだという。その相手がステパノフだった。中谷さんはその時は対戦しなかったが、五輪開催年の2月にモスクワで行われた国際大会に派遣され、決勝でステパノフを破った。足払いで技ありを奪い、優勢勝ちで逃げ切った。

 ブーイングを浴び、ソ連の地元紙に「逃げて勝った中谷」と書かれても「気にならなかった」と言う。ニッポン柔道は一本が美学。でも、あえて逃げた。モスクワの会場はイ草の畳ではなく、スケートリンクに素板を渡して枯れ葉を敷き、じゅうたんを載せた急造の「マット」。滑るため得意の小外刈りで踏ん張れない。対策としてぬれタオルを場外に置き、「待て」がかかるたびに足裏を湿らせた。ステパノフもそのタオルを踏みにきた。悪条件のビッグゲーム。だから、割り切った。

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